長嶺令子の話

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/16ページ

長嶺令子の話

令子は追い詰められていた と言うか、思えば何故か令子は昔からいつも追い詰められた気分でいる事が多い それは自らがそれを招いている事なのか 生まれついて来た時に自分がそういう運命を定められた存在なのか 今ではもう自分でもよく分からなくなっている 自分には生後、もうすぐで一年になる子供がいる 本当に可愛い女の子だ 生まれてきた瞬間に 私はこの子を産むために自らも産まれて来たのだとも思ったし、この子だけは私が何に変えても守り抜く!と心の真の底からその思いが湧き上がるほど感動した でもその子育ての現実は本当に日々過酷だった この子には父親が居ない 居ないというか この子の父親に私が妊娠を告げた時にその男は逃げたのだ 何処にでも良くある話? その男というのは、彼女が事務職の派遣先のその会社にいた営業部の男だった 彼女がその派遣先で経理の仕事をしているといつもタイミング悪く、決まっていつでも遅れてレシートを精算にやってくる様なタイプの男だった それもまた決まって、それは宛名書きや、但し書きの記入された領収書ではなくて、一番手続きの厄介な、ただのレシートだけを持ってくる そういう男だった その男の、その平安顔とそののんびりとした性格、風貌から周りからは麻呂と呼ばれていたその男に対して、令子も最初は自分が派遣だという身分をわきまえて、軽く嗜める程度の発言で済ませて精算をしていたのだが それが、その後も懲りなく何度も何度も続いたので、令子もつい、思わず 「言いましたよね? もう、いっつもそうじゃないですか、ホント加減にしてもらえませんか⁈」 と一度、声を荒げてしまった事があり、令子はその時一瞬、しまった!と思ったのだが そんな時でも彼は、頭を掻きながら本当に申し訳ないという顔をして令子に平謝りし、 更に、お詫びに今度晩飯を奢るよと約束してきたのだった 令子はその時 (あっ、この人、意外に可愛い…⁈) とその時初めてこの男を男性として意識した 令子という女性は生まれてから今迄の恋愛経験を話すと、それがどこの誰にその恋愛話をしたとしても、それこそ 「そんな男やめちゃいなよ!」 「絶対別れた方が良い!」 と十人が十人、口を揃えて同じ事を進言するであろうタイプの男としか付き合った事が無かった だからこそ令子は、その時周りから見ればあまりウダツの上がらない、決して女性の誰もが振り向きもしない様なその男を 「可愛いくて感じの良い人」 と好印象で捉えてしまったのだ 令子は、そこからは自分の方が積極的だった そのお詫びの一回目の食事で別れ際にキスまでして その後二回目に会った時にはもう男女の関係に なっていた 令子はもうその時既に、結婚してもいい いや、この人とは結婚する運命なんだ とまで思っていたのだ だから彼が自分の部屋に泊まりに来て、夜、自然な形で(彼は令子が初めての女性であった様なので最初は、あまり自然な形ではなかったとも言う事も出来るが)彼がその時に避妊具を付けなくてもなんとも思わなかったし、それで仮にもし、妊娠したとしてもそれはお互いの結婚を早めるキッカケになるものだと思って自然に受け入れていた その内に自分の派遣の期限が切れて他の会社に移っても、彼は週末になると必ず自分を尋ねて来ていたので将来は約束されていると一人勝手に思い込んでいた ただ、その付き合いの中でちょっとだけ彼女を不安にさせていた事は、彼が自分の部屋には良く尋ねてくるのだが 彼の方はと言うと、実家に住んでいながらただの一度として彼女を自宅に招く事、そして彼の両親に自分を合わせる事をしなかった事だった 令子もその事はかねてより少し気になったので彼にそれとなくその事を尋ねた事もあったが 彼はその事になると言葉を濁し、有耶無耶な歯切れの悪い答え方をする だが彼女もその事は勝手に 「ああ 何か事情があって あまり両親との関係が上手くいっていなかったりするのだろうな」 などと想像し、それ以上追及する事はしなかった ある日、当然の様に彼女は妊娠した 週末にこれもまた、当然の様に自宅を尋ねてきた彼にその事を報告した 「えっ?ああ うん そうなの?」 と一瞬彼が身じろぎした様な素振りをした時も 突然の報告だったから驚いたのだろう と位にしか思わなかった その週末から彼との連絡が一切途絶えた 彼の番号に電話しても常にあの機械的メッセージが流れる様になったのだ その時初めて彼女は自分の今までのその絶対だと思っていた将来への思い込みが それは彼女の一方的な思いで それは彼と共有した想いでは無かった事を其処で初めて知り、絶望感に苛まれた そんな絶望の、長い長い時を、ただ一人で思い悩みながら過ごし、ようやく一週間経った時、彼の方から連絡が来た 彼の方と言っても連絡をしてきたのは彼女の母親に頼まれたと言う弁護士からの連絡だった その弁護士曰く 彼の実家、父親はなかなかの名士で家柄も良く、地元の区議までしている程の存在で その息子、つまり彼には今までは黙って自由にさせてきていたが、その内には彼の父親が歩んだ様な道を進んでもらう為に、此方に戻って来させるつもりであり、当然、結婚相手についてもそれなりの家柄の者と結ばれてもらう予定でいる だから、貴女の様などこの誰だか分からない人物をこの由緒ある家柄に嫁として迎い入れる訳にはいかない かと言って先方様には当然迷惑をかけた事は間違いは無いのだから、それ相応の誠意、対応はさせていただきます と告げられた 絶望と焦燥と不安と後悔 こんな人生で起こりそうなどん底さんが、全部纏めて、こんにちはー、宅急便のお届け物です! みたいな形で突然やって来ると 人間は全ての思考が完全停止するんだな と令子はその時初めて知った まるで心の真ん中にブラックホールの様な穴が開いて全ての感情がその中に吸い込まれていったかの様に何も考える事が出来ない状態だった 喜怒哀楽という全ての感情が今までどうやって湧き起こってきていたのかも分からなくなっていた その時いつ、どの様にご飯を食べて、そしてそれでも仕事に行って、どうやって帰って来て、家の中で何をして、その後、自分は、寝ていたのか寝ていなかったのか、今思い返してみても当時の事を何もかも全てが思い出せない ただ全ての感情が無くなると、死への憧れすら無くなる様で 不思議だけど自ら命を断つ考えは全く浮かんでこなかった そんな日々を過ごしながらも 時々かかって来る弁護士の言うがままにしているとある日、自分の預金口座には年収の何倍もの金額が振り込まれていた その今まで見た事もない様な入金額が書かれた通帳を令子が見た時 ただ一つ ああ全てがこれで終わったんだな という思いと共に 心の中に新鮮なとても爽やかな空気を含んだ風が吹き込んできた様な感覚を覚えた 突然お腹がグーっと鳴った お腹すいた… そして突然、 私はこの子を産む 産んでこの子と生きる という気持ちがふつふつと沸き起こって来るのを感じた 相手にはその後、一切何の連絡もする事は無かった それは全然気にならなかった 問題は令子の親の方だった 令子の母親はまだ令子が小学校低学年の時に病気で亡くなっている その後母親の両親の元で令子は育てられ 父親からはその元へ令子の養育費だけが送られる形になった その生活も令子が高校生に上がる頃には母方の祖母が亡くなると祖父一人では面倒を見ることが大変になったという事で祖父は老人ホームへ入所した 令子は今度は父親の元へ行く話にはなったが、その頃にはもう父親には一緒に暮らす相手がおり、おまけにその相手には令子と同い年の男の子がおり、父親はその子も一緒に住まわせて暮らしていたので令子にはもうその家には全く居場所がなく 一人肩身の狭い息を殺して暮らす様な生活を高校卒業まで過ごし、そして卒業と同時に働き始めた事をきっかけに飛び出す様にして一人暮らしを始めたのだ それ以来よっぽどの事がない限り 父親には連絡もしなければ、ましてや会うなんて事は滅多にしなかった 今回の子供の事も一人で産婦人科に行き 一人きりで出産し、その後で父親には子供を産んだ事、その子を一人で育てる事だけ伝えた 流石に何か言いたかった様だが あちらから何か言われる前に慌ただしく電話を切った 今まで一人暮らしをしていたアパートを引き払い母子家庭という形で公団住宅に今までより広い間取りを手頃な家賃で住まわせてもらう事ができた 幸い公による手厚い保護も受けられる事もできたし、いざとなったら使える程のお金も持っていたので金銭面では不安は無かった それでもいくら覚悟していたとしても女手たった一つで幼子を育てていく事はそんな甘いものでは無い事を直ぐに知った 夜泣き、授乳、糞尿の始末 これがせめて助けになる母や祖母の一人でもいさえすれば全然違っていたのだろう 彼女の全ての気力と体力、そして時間 全てをこの子一人の為に使い果たしてもそれでも尚、この子に十分な満足を与える事ができないらしい その日もこの子のミルクの準備をしているとベビーベッドの方から泣き声が聞こえて来た 「オンギャー、オンギャー!」 今度はオムツだろうか? と赤ん坊の方へ行きウンチの確認をしようと抱き上げつつ窓の方を見たら 空が暗くなっている 雨? と窓の外を見ると既に雨粒のパラパラというベランダを打つ音が聞こえ始めていた すると今度は玄関のチャイムがピンポーンと鳴った 彼女は今同時に起こった三つの事を軽いパニックから一旦落ち着いてどれから整理すべきか?と思いあぐねている心の隙間すら逃すまいとキッチンのヤカンのピーという甲高い警告音が鳴り始めた オンギャー パラパラ ピンポーン ピー 今四つの音が彼女に優先順位を問うている ハアハアと赤ん坊をその胸の中で抱えながら彼女の息遣いは荒くなった オンギャーオンギャー パラパラパラパラ ピンポーンピンポーン ピーーーーー ハアハアハアハアと彼女の息遣いは更に一層荒くなっていった オンギャーオンギャーオンギャー! パラパラパラパラパラパラ! ピンポーンピンポーンピンポーン! ピーーーーーーーー! ハアハアハアハアハアハア…! …プッツン… 彼女はカッと目を見開き彼女の眼光の奥が怪しく光った様な気がした すると 今目の前で大きな声を上げて泣いていた赤ん坊が何か呪いでもかかった様にストンと眠りに落ち ベランダではバン!とベランダのサッシが突然開きベランダに干してあった洗濯物がバササッと風と共に家の中に舞い込んで来た そしてキッチンではガスの開いていたスイッチが一人でにクルリと周りパチンッと火が消えた ピー………と先程まで甲高い音を立てていたヤカンは徐々に大人しくなっていった 令子は眠りについた赤ん坊を抱えながらインターホンの通話ボタンを押した 「はい…?」 「お届け物でーす」 「はい、少しお待ち下さい」 彼女は落ち着いた声で応答した
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!