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師走
黒豆をうまく炊くのは難しい。冷たい水に長く浸水させて豆を戻し綺麗に洗う。それからことことと炊いて冷ましてまた炊いてを何度か繰り返して更にじっくりと炊いていく。
注意深く見守っていても薄い皮が破れることもある。すると食べれなくはないけれど、これまでの手間が無駄になったようでとてもがっかりする。
沓川光は古い台所で伊達巻を巻き簾で成形しながら何度もホーローの鍋を覗き込んだ。
調理を仕事にしていたので手際は悪くない。しかし日本の家庭料理の、しかもお節料理は専門外なので勝手がわからない。一度叔母に習った手順を頭の中でトレースしながら作業のタイミングを計る。
十年前に出た実家の台所でひとりお節の準備をしている。もう戻ってこないと思った家の台所に立って料理をしている。
よく母が親戚の女衆とここに立っていたのを覚えている。昔ながらのしがらみが強い農村部のことで、姑のいない沓川の家を気にして行事ごとには誰かしらが来てくれた。女手が足りないでしょ。そう言って姦しく手を動かしていた。
女だから、男だから。
古い価値観と因習が染み付いたこの土地が嫌だった。噂話はすぐに地域を巡る。秘密を抱えて生きていた十代の光にはとてつもなく憂鬱な、檻に閉ざされた牢獄のような場所だった。
でも帰ってきたのは心残りがあったから。
年を経て罪人のような気持ちは薄くなって、ただ懐かしさだけが募ったから帰ってきた。二十八になった青年の光は面の皮が厚くなって嘘をつくのが上手になった。
もうすぐ家人が帰ってくるなと時計を確かめていたら玄関の引き戸が音を立てた。古い作りの日本家屋は色んなところで大きな音がする。磨りガラスの嵌め込まれた木枠の引き戸は建て付けが悪く引っかかるし、板張りの廊下は踏んだ人間の重さでぎしぎしと鳴る。
足音やドアの開け閉めにも個性があって、毎日聞いていると誰が立てた音かがわかるようになる。だから子供の多い沓川の家では誰がどこで何をしているか大体わかったものだった。
いま廊下を踏む音は大人しい。深く、重さで沈む音だけがする。こんな風に静かに音を立てるのは五人いる兄弟姉妹の中で一番上の兄だ。長男らしく行儀良く大人しい足音。
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