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第3話 サナトリューム(結核療養所)
この時期は、決まって同じような夢を見ていた。嘗ての入院先の出来事で、栞と既に葉っぱを落とした雑木林の中を歩っていた。実際、僕らはそんな林の中をよく散歩していた。林の中には、以前は此所の患者だったのだろう人たちが作った小さな畑や、花壇があり、手作りのベンチも所々に設置されていて、人目の届かぬベンチを見つけては栞とキスをした。
「感染るよ!」
「いいよ、どうせ感染ってるし。」その頃の栞はまだ元気で、僕が敷地内のあちこちへ連れ回しても何とか付いてきていた。木立の間から木漏れ日が射す、秘密基地的なベンチや本館から出て、長い渡り廊下を下ると在る木造の旧館など、その中でも、すでに使われてはいなかったが講堂のような建物が在った。そこには、まだ音が出るピアノが置いてあり、栞はそこで細い指を使い、たどたどしく、きらきら星や庭の千草を引くのが好きだった。それは、僕が入院する前からこっそり始めていた事らしいが、初めて僕が其処へ行った時、
「薫、何か引ける?」と訊かれたので、僕はバイエルの初級練習曲とトルコ行進曲を弾いて見せた。
「すごーい、薫、私の先生になってよ!」
「先生になれるほどうまく無いよ。小学校の時に習っていただけだから。その頃は、音痴だったんだ。」
「音痴?」
「うん、耳から入ってくる音階がずれちゃうのさ、たとえばドレミファソラシドがジョベビバゾンダジジョみたいにね。それを強制するのもあってピアノを習わさせられていたんだけど、おかげでピアノ嫌いになっちゃった。」栞はクスクスと笑いながら、
「ええ、何故?」
「先生がやたら厳しくて、こっちは、別にピアニストに成ろうとしている訳じゃないのに。だから、今は趣味で楽しい気持ちで引ける曲しか弾かないんだ。」僕はそういって、ジャズのスタンダードを幾つか弾いた。そのなかでも、栞はテイクファイブが何処かで聞いたことがあるとか言って気にいっていた。ホンキートンクになったピアノはクラッシク曲より、適当に弾いた僕のジャズナンバーの方がしっくりきていた様だった。
「この曲なんて曲?」
「うん、まあジャズの代表的な曲かな。」
「よく、バーとかで流れてる曲?」
「ふーん、そう言う場所には、良い雰囲気の曲だね。バーとか言った事あるの?」
「うん・・・私、置屋の子なの。」
「置屋?」
「京都の舞妓さんとか芸妓さんて知らない?」
「ああ、高校時代に修学旅行に行った時に見たな。」
「その舞妓さんや芸妓さんは、たいてい何処かの置屋のものなの。」
「ふーん、芸能事務所みたいのもんか。」
「私の母は、京都で芸妓をしていたんだけど、ひいきにしてくれた旦那さんとの間に出来た子供が私なの。でも母は、体が弱くて、私が五歳のときに死んでしまったわ。それから暫くその置屋で育てられた後、ある老舗の漬け物問屋を経営する家に引き取られたの。そこで働かせて貰いながら、定時制高校に通ったのよ。でも自分がこの病気に罹ってる事知らなくて、問屋の社員旅行でこの病院の近くの温泉に来た時に喀血しちゃって、そのまま病院暮らしに成っちゃった。あっと言う間に、もう22だものね。」
「えー、僕より歳上なの!」
「薫は幾つ?」
「19だよ。」
「ふーん、じゃー薫は私の弟ね。」
僕は栞の体調を慎重に判断しながら、外泊許可を申請した。栞も僕と示し合わせて外泊許可を取っていた。担当医からの許可は意外にあっさりと出たので、僕は一寸拍子抜けがした位だった。後から考えれば、担当医はちゃんと分かっていたのだろう。それでも僕らは、一応時間を少しずらしてから別々のタクシーで最寄りの鉄道の駅まで向かった。下界はまだ夏の暑さが少し残る、蒸し暑い日だったが、先に出ていた栞は、構内のベンチで僕を待っていた。僕の姿を見つけると嬉しそうに手を振った。
「待った?」
「20分位かな、別に一緒に出ても良かったんじゃないの、どうせばれてるし。」
「でも僕は一応、帰宅て事にしてあるからさ。」
「だって、電車で帰るなら、駅まで一緒だっておかしくないのに?」
「でも栞が変な目で見られるかなと思って・・・」そんな短い会話をした後に、僕らは電車に乗って三つ先のこの辺では一番大きな町に出た。電車は河岸段丘の崖の縁を抜け、二つの山裾が覆い重なる様な場所にある町の駅に着いた。その町は教養課程の2年間、僕が過ごした所でもあった。僕らは、駅からタクシーを使い、薔薇で有名な大きな公園に向かった。この辺からたゆたいと流れ始める川沿いに広がったその公園は、幾つかの運動施設の他に、薔薇園を初めとした季節の花をあしらった花壇が数カ所に点在している。僕は栞の体調を気遣いながらゆっくりと歩いて、川沿いの土手に広がる一面のコスモス畑に辿り着いた。栞はその景色をまるで子供の様にはしゃぎながら見ていた。
「すごーい、こんなに沢山のコスモス見るの初めて!薫はこれを見せたかったの?」
「ああ、此所だけじゃないけどね。今の時期ならボートに乗れば蓮の花も見られるし、春の頃なら桜も綺麗なんだ。」
「桜か、桜なら京都も綺麗だけどね・・・また見たいな。」
「大丈夫、元気になればまた見られるから。」
僕らは結構長い時間そのコスモス畑に止まってから、ゆっくり松林を抜け、詩人の碑を見てから軽食店舗や喫茶店が在る区画へ行った。そしてその当時ではまだ珍しかった、ピザの専門店に僕らは入った。山のロッジをイメージして作られた様なその店は、平日とあって空いていて、愛想の良いコックとウエイトレスが出迎えてくれた。僕らは川面を渡る風が心地よく入ってくる席に着くと、ミックスピザとコーラを注文した。
「栞はピザは食べた事ある?」
「うんん、食べたこと無い。でもお焼きみたいなのでしょ?」
「まあ、西洋風のお焼きか?うーん少し違うかな、まあ食べれば分かるけどね。」そんな会話をしながら、出てきたピザを食べ始めていた。
「うーん、美味しい!こんなの始めて、外国の味?」そんな無垢で無邪気な顔をした栞を見るのは始めてだった。
川沿いを少し下った所の橋の側にそのホテルは在った。ホテルは左右に広がった二つの山裾が見渡せる、扇の要の様な位置にあり、僕らの取った部屋からは、茜色に染まった山裾が見えた。緩やかな傾斜の上に広がった街並みの外れに、僕らの病院の建物の一部が見えていた。栞は部屋の窓から其方の方を見て
「もう四年も彼処に居たのね。」と淋しそうに言った。僕は窓際にたたずむ栞の小さな肩をそっと抱いてから唇を重ねた。
「ほんと、うつるよ。」
「だからもう、うつてるって!」
「薫はまだちゃんと治療すれば直せるんだから、私の変な菌をうつしたくないのよ。」そんな栞の言葉に、僕はその時、主治医に見せられた栞の胸のレントゲン写真が脳裏に浮かんでいた。白く成った肺にポカンと空いている幾つかの空洞が、命の一部を食い尽くした残りカスの様に思えた。暫く暮れなずむ山裾の町を見た後で、二人して風呂に入り、お互いの体を隅々まで丹念に洗った。
「体の中もこん風に洗えれば、病気なんて直ぐに直っちゃうのにね!」栞は少し淋しそうに言いながら僕にキスをしてきた。
白い肌がほんのり赤みがかった体を、大きめのバスタオルで包んだまま抱きかかえてから、ベットに運んだ。ベットの上で暫くじゃれ合て居たが、ふと僕が栞の上に来た時、
「いいよ、しても・・・」栞が恥じらう様に言った。
「うん。」僕は、そんな栞の顔を京人形を見るように見入っていた時、
栞が軽く咳をした。その途端、僕の右目の視界が赤く染まった。一瞬何が起こったのか分からないまま、僕の腕の中で激しく咳き込んで行く栞をぼんやり見ていた。そして僕が気が付いた時、まるで赤い薔薇の花びらの上に寝かされて居るような栞の姿が在った。それから先の事は、自分でもあまりハッキリとは覚えていないのだが、意識の無くなった栞を多分人工呼吸でもしようとしたのか、そんな中、フロントに電話を入れて救急車を手配してもらったのか、我に返った時とでも言えばいいのか、僕は病院の処置室に居た。
「お前の方は大丈夫だった様だな!」主治医は、ぼそりとぶっきらぼうに言った後
「栞はもうだめだ。右肺が完全に崩壊しちまってる。」そう言いながら手にしていたレントゲン写真を蛍光板の上に差し込んだ。そこには、以前に見た幾つかの空洞の代わりに、アンパン大の空間が空いていた。
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