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最悪な日は毎日訪れる。
終電少し前の、駅のホーム。叩かれた左の頬がヒリヒリと痛む。
辻先生は、あの人のどこが良かったんだろう。宮前森乃。辻先生の婚約者だった人。大人っていう生き物の、嘘っぽい正しさとか、弱さを認めないずるさとか、そういう嫌な部分を全部かき集めたみたいな人。
私はあの人のことが心底嫌いで、というかあの人が、亡くなった辻先生を好きだった私のことを嫌いだった。
「君は、毎日ここにいるね」
暖かい午後の光が差し込む三月の美術室で、声をかけてきた辻先生の瞳には私が握りしめた碧の色鉛筆の先っぽがくっきりと映り込んでいた。
「美術部だから」
「嘘。部員の名簿に君の名前はなかったよ、雨宮さん」
雨宮 糸、と書かれたスケッチブックに視線を落とす。辻先生は私が二年にあがる前に着任してきた美術の非常勤講師だった。
「答えないといけないの」
「答えてくれたら嬉しいな。とっても上手だし、どうして君が描くのか、気になる」
机に広げられたページに描かれた碧のワンピースを着た女の子が寂しそうにこちらに笑いかけている。
「描かないと、きっと捨てられるから」
デザイナーの母が、身寄りのなかった私を育ててくれたのはデザインの才能があったからで、私を愛しているからではない。きっと、私を育て上げてデザイナーにしたかったのだ。まるで、母のブランドの一つのように。そんなこと、私にとっては小さな頃から当たり前の事実で、いまさら否定すべきことでもない。でも誰かに言うのはちょっとめんどくさかっただけ。
校庭で楽しそうにはしゃぐ女子たち数人の、きらきらした声が古く錆ついた小窓を伝い、教室に入ってくる。かき消されてしまえば良かったのに、淡々と話す私の音を拾った辻先生は、静かに言ったのだ。
「絵は、自由になるために描くものだよ」
それから高校卒業までの二年間、私は辻先生のことが好きだった。
けれど、先生が私のことを好きになることはなく、婚約者のいた先生は彼女を残し、私が高校を卒業してから一年後、交通事故でこの世を去った。
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