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五分後にくる電車が最終だというアナウンスが構内に響き渡る。
改札の手前、ぽつぽつとホームへ向かう人の背の隙間に、いきなり現れる何も描かれていない壁。つーっと人差し指でなぞると、くすんだ塗料の剥がれた欠片とホコリが指先にまとわりつく。
もう一度壁を眺めてみる。みんな壁には見向きもしないから、まるで私だけのために存在しているみたい。何の意味もないけれど、パシャリとスマホで写真を撮ってみる。
今、もし神様がこんな風に世界を差し出してくれたとしたら、私は喜んで絵筆を握ってこの壁を好きな色に塗り替えるだろう。今ある世界のすべてをかき消すように、こんやろーって。
でも今は、何の色で塗り替えたらいいか、それがわからない――。
電車の到着する前のアナウンスに紛れ、どこがでスマホが鳴っているのが聞こえる。ふと、壁の端に視線を移すと、ヘリの隙間に器用に収まったスマホがどこかの番号を告げている。
改札越しにホームで電車を待っている何人かが、音に反応してちらちらとこちらを見る。私のじゃないのになんだか責められているような気がして思わず電話に出た。
「あの、そのスマホの持ち主なんですが。すみません、今どこにあります?」
男は焦った様子。やけに低い声は同い年くらいにも思えるし、もっとずっと年上のような気もした。電話口が騒がしい。キャッキャ言う女の声も聞こえ、周りに何人かいるのがわかる。私は耳からスマホを一瞬離す。
「駅ですけど」
「あ、やっぱ駅かあ。じゃあ、すみませんけど、持っててくれますか? すぐ取りに行きます」
そう言うと自分勝手にプツッと切れる。
もう終電が来てしまう。スマホを耳から離すと同時にピアスがぽろっと落ちる。
高校三年、連れて行ってくれた大学の文化祭の雑貨市で、辻先生が私にプレゼントしてくれたもの。初めてで最後の。花みたいな雪結晶のピアス。今はもう、片方しかないけれど。
通りゆく人に踏み潰されないよう急ぎ拾い上げ上体を起こすと、サラリーマン風の男とぶつかり舌打ちされる。男の肘がちょうどさっき叩かれた左頬に当たり、またヒリヒリし始める。宮前森乃の言葉を思い出す。
――あなたはなんでここにいるのよ。どうして来たのよ。来る資格なんてないくせに。
ムカつく。本当にムカつく。
銀色のゴミ箱が大きな口を開けてこちらに向いている。勢いでスマホを捨てようと振りかざすと「あの」と背中に声が。
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