245人が本棚に入れています
本棚に追加
「下村さん、頼んでた書類できた?」
文也のことを考えていい気分だったのに、私の天敵が高圧的な態度で仕事を急かしてくる。
彼女の名前は上島美穂、この東京山技術フーズの商品営業部で唯一の女性正社員、30歳独身。
仕事仕事で女を忘れた嫌なやつだ。
大きな黒縁メガネがトレードマークで派遣仲間の間では「仕事しか能がない女を忘れたお局様」と陰口を叩かれている。
けれど今は私が悪い、頼まれていた仕事をやっていなかったのだ。
「はい、今作ります」と小さな声で答えた。
上島さんは額に皺寄せて眼鏡の淵を持ち上げた。
「まだできてないの?頼んだの先週だよね?」
「あーもう、ガミガミうるさいな。そんなんだからまだ独身なんだよ!」
私のその心の声は顔に出ていたらしい。
「下村さん、その顔はなんなの?そんな反抗的な顔する前にやることしっかりやってくれる?」
上島さんは更に額に皺寄せながら、早口で追撃した。
本当に嫌な奴、人間的に絶対合わない。確かに私が悪いんだけどさ、もうちょっと優しくてもいいんじゃない?
その時、私に救いの手が伸びてくる。
会議室から課長がひょっこり顔を出すと、こう叫んだ。
「ごめん、誰か会議室にお茶二つ持ってきて」
「はーい、私行きます」
満面の笑みでそう答えると、上島さんが悔しそうな表情で自分の席に戻っていく。お茶出しは私たち派遣社員の大切な仕事なのだ。
隣の席の派遣仲間の美里が「良かったね」と言わんばかりに目配せをする。
給湯室でお茶を入れお菓子を用意すると会議室へと急いだ。
この会議室で私の全てを揺るがすような大事件が起こるとは、この時まだ気づいていなかった。
最初のコメントを投稿しよう!