ばかなこと、なんてない

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 ばかなことしたねえ、と看護師さんが言った。  その『ばかなこと』が何を指しているのか理解できず、看護師さんを見上げる。看護師さんの視線は、袖をまくり上げたわたしの左腕に向けられていた。  まったくの健康体であるから必要ない。そんな言い訳は許されず年に一度、会社に命じられて病院に行く。健康診断というやつだ。三十五歳未満は定期健康診断で終わるものの、今年は社長の娘が大病を患ったのをきっかけに、若いうちからしっかり検査するべきと上層部が息巻いて、一般健診を受けることになった。ありがたい話にも思えるけれど、やれ血液検査だのバリウムだのと面倒なことが多い。  その血液検査である。採血するからどちらかの腕を出してくれと言われたので利き腕と反対の左腕を出した。そこまでの流れにおかしなことはない。ではどうして「ばかなことしたねえ」と言われたのだろう。  少し経ってから気づく。わたしにとってはそれが当たり前のものであったけれど、左腕に瘢痕(はんこん)がある。同じ長さ、等間隔の隙間をあけて、肘から手首にかけて流れている血管を遮るような四本の横線。周囲の肌色よりも二トーンほど明るい色をし、ぼこりと皮膚が盛り上がっていた。触れたところで痛みはなく、肉の山があるだけ。でも問題はそれじゃない。 「今は、もうしてない? 大丈夫?」  駆血帯を巻く作業ついでの雑談といった軽さで看護師さんが言う。ようやくわたしも質問の意図がわかって、けれど答えに窮した。  この看護師さんは、この瘢痕が自ら傷をつけたものだと察している。これはリストカットの痕。看護師さんの予想は正しく、確かにわたしは自分の手首を切っている。  でもこれは『ばかなこと』だろうか。醜い瘢痕であることは認めるけれど、本当に『ばかなこと』と呼べるのか。舌とか唇とか咽頭といった体のパーツが乾いたスポンジのようにかさついて声は奪われていくような気がした。思考も、脳のどこかに吸いこまれたようにぎゅっと集約して、返事を出すことが億劫になる。ぼんやりとしてしまっていた。  扉隔てて廊下の方から、病院のアナウンスが聞こえる。個人情報保護で名前は呼ばれないから番号札で呼ぶ。四十三番の方、七番診察室へどうぞ。きっと四十三番の札を持った人が歩いていくんだ。ずっと昔わたしにも番号がついていた時があった。それは出席番号。名字のあいうえお順で決まるもの。わたしの名字は志島(しじま)で、彼女と同じサ行だった。クラスに佐藤さんはいなかったから、わたしの前に座るのは三枝(さえぐさ)の名字を持った彼女。  振り向いても笑ってくれやしない。ふつうの子と似ているようで変わったところがある。きもちを言葉にするのがわたしよりも上手だった。彼女はいつも冷めた目でどこか遠くを見ていて、大人びたまなざしに憧れた時があった。そのくせ繋いだ手は温かい。  暑くて、太陽はなかなか沈まなくて、空と地面から焦げるような熱を感じた夏の日。彼女がわたしの手首に触れた時は血が滲んでいた。彼女もそうだった。わたしたちは同じようで違う絶望に焼かれて、苦しんでいた。  じっとりと汗ばんで肌に張り付く、苦しくなるほどの暑さ。蒸された草木の青いかおり。涼やかな彼女の瞳が悲しげに潤んでいたから、喉から何かが込み上がりそうになった。塩辛い涙みたいな何か。  彼女のことを、オリちゃんと呼んでいた。  ***
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