第一章『原初の胎動』

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第一章『原初の胎動』

アズルイラ(原初の神)」――二つの運河に挟まれた肥沃の大地。広大無辺の沖積平野(ちゅうせきへいや)のアズルイラとそこに息づく生命は、自然たる神々に統治されている。アズルイラに点在する幾つかの都市国家の内、最高神アヌを都市神として(まつ)る城塞都市国家「ファジュル」。 泥煉瓦を積み上げた高大な城壁が都市を円状に囲い、正面には壮麗な瑠璃の正門が艶めく。都市の中心に座するは、天界の階段さながら顕現する天高き城塞「ジクラット」。白陽を吸収して光り輝く城塞都市は、アズルイラ地方最大の国家だ。普段は自然と一体化している神々に代わり、王家が民を統治する。ファジュルでは、第六王のカリムと妃マルヤムの間に無垢で麗しい女児が産まれていた。王家にはある言い伝え(・・・・)がある。 「ダムア海」さながら真っ青に澄んだ髪と瞳、透き通るような真珠肌、無垢な心を持つ美しい女の子は、「母神・バハル」――原初の海からアズルイラの神々と生命、天地を生んだ偉大なる女神の生まれ変わり(・・・・・・)だ、と信じられている。ファジュルで生まれた無垢で美しい女児は「サフィア(純粋に澄んだ)」と名付けられた。王家の者と民、動物達にすら崇愛され、花のように大事に育てられたサフィアは、もうすぐ十六歳を迎える。 「サフィア様。サフィア様っ。どちらにいらっしゃいますか」 爽やかな日差しに甘いナツメヤシの芳香が溶ける城の柱間と廊下には、王女サフィアを探し求める声が響いていた。淡い褐色の顔に淑やかな知性と貫禄を浮かべる壮年の婦人はハニファ――王家の秘書官に神殿の祭祀長、そしてサフィアの世話人を務める者だ。間も無く迎える王女の第十六誕生日に際する重大な話があるのだが、サフィアの姿は一向に見当たらない。心配でたまらないハニファは名前を呼びながら、城内を隈なく巡っていた。 「私を呼びましたか? ハニファ」 「! サフィア様! よかった……! 一体どちらへ……」 「少し街を散歩してきただけです」 ハニファの必死さに応える女神のように、サフィアは凜然と姿を現した。探し求めた王女を見つけたハニファは安堵の溜息を吐いた後、心配をかけたサフィアを諫める。 「そうでしたか。ですがサフィア様。城の外を無断で出るのはもう……」 「そんなことよりも、私に話があるのではありませんか?」 一方サフィアの声と表情は透明な水のように淡々としていた。喜怒哀楽を映さない無垢な冷徹さを秘めた眼差しに、ハニファは一瞬息を呑む。波紋一つない蒼瞳には、かつての無邪気な煌めきも、花のような笑顔の面影はない。ハニファは胸につっかえた刺の痛みをやり過ごしながら恭しく用件を伝えた。 「サフィア様の十六回目の誕生日ですが、今年は特別に祝いの儀と共に成婚の儀を……」 「はい。全ておまかせします」 「サフィア様。この間もそう仰いましたが、国の宝たるサフィア様の一生に一度しかない祝福の儀式。私ごときの一存のみで進めるわけには」 「相手はアシュラフ兄様でしょう? なら何の心配もいりません」 「それはそうですが……」 相手に全て一任する。暗にそう伝えるサフィアの表情も口調も静かだ。しかしそこ見えぬ深海さながらの静かな威圧感と拒絶を(まと)っているように見えた。 「気が進まないのは分らなくもない。しかし、あまりハニファを困らせるのはどうかな?」 「! アシュラフ様? まあ、わざわざお越しになられて。仰ってくだされば、迎えを寄越しましたのに」 「いや、そんな(かしこ)まらないでください。丁度近くを通りがかったので様子を見にきたんです」 言い合うサフィアとハニファを訪れたのは、隣の盟友都市国家ザハブの王子アシュラフ。赤褐色の瑪瑙石(メノウせき)さながら艶めく短髪と緑柱石(エメラルド)の碧眼は凛々しく高貴に輝く。端麗な顔立ちに鍛えられた細身には精悍な雰囲気が滲み溢れる。英雄然とした麗しの王子の方は、伝説の武神アダーラに連なる神聖な王家の育ちだ。 「久しぶりだな、サフィア。元気にしていたか?」 アシュラフは物心ついた頃から、度々訪れては一緒に街を歩いて、粘土板遊戯や勉強などに付き合ってくれた。サフィアにとっては知的で穏やかな頼もしい兄のような幼なじみ。サフィアが十六歳で成人を迎える時は、アシュラフと婚姻(・・)を結ぶ。昔サフィアとアシュラフ双方の両親の間で既に取り決められた約束。アシュラフ自身は、純粋で愛らしいサフィアを昔から気に入って可愛がっていたことから、結婚に異存はないらしい。 「この通りです。アシュラフ兄様も元気そうでよかった」 サフィアもアシュラフのことはむしろ好ましく、親しみと信頼を寄せているため婚姻自体には拒否的ではない。しかし。 「せっかく久しぶりに会えたから三人でお茶をしないか。サフィアの好きな焼き菓子を持ってきて……」 「お気持ちは嬉しいのですが、申し訳ながら今日は遠慮させてください」 アシュラフは芳醇なお茶と好きな土産菓子でさりげなくサフィアを誘い、和やかな雰囲気の中、三人で話し合えるよう取り計らおうとしてくれたのだ。と考えていたのだ。何ともアシュラフらしい気遣い(作戦)だ、とサフィアは内心微笑んだ。アシュラフの意図を見抜いたサフィアは、適当な理由をつけて誘いを断った。 「サフィア様、どちらへ?」 「気分が優れないので少し部屋で休んできます。本当にごめんなさい、アシュラフ兄様」 「いや、それなら気にしなくていい。お茶はまた気が向いたらいつでもいいから、ゆっくり休んでおいで」 水のように淡々と澄んだ口調で謝るサフィアに、アシュラフは柔和に微笑みかけた。それでもサフィアは柳眉一つ揺るがない静かな表情のまま歩き去った。静かなる拒絶を纏ったサフィアの儚げな背中を見守るハニファとアシュラフは、複雑な心境にあった。 「すみません。かえってサフィアの機嫌を損ねましたかね?」 「いえ、そんなことはありません。きっとアシュラフ様の来訪もお土産もサフィア様はお喜びになっています」 「そっか。それともやはり婚姻の件が……」 「ご心配には及びません。きっとサフィア様も、アシュラフ様をお慕い申しています。昔から仲睦まじいお二人を見てきた私には分かります」 「……ありがとう。ハニファ」 サフィアの冷然とした態度から、自分は嫌われたかもしれない。そう苦笑するアシュラフを、ハニファは申し訳なさそうに励ます。昔からサフィアを知るハニファは分かっている。サフィアは本当に怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。サフィアはアシュラフを嫌ってはおらず、むしろ信頼すらしている。ただ今のサフィアにはあらゆることがどうでもよくなっている(・・・・・・・・・・・)。 どこか自暴自棄なサフィアの反応は、かえってハニファやアシュラフの胸に拭い難い刺となって痛かった。いっそ子どものように素直に怒り泣いてくれたのなら。しかし、サフィアが本当の気持ちを明かしてくれない限り、互いの問題も話し合いも平行線だ。サフィアが昔の笑顔を忘れてしまったのは……やはり四年前の両親との死別が尾を引いているのか、それとも。日に迫る成婚の儀の取り決めを心配する中、二人は今となっては懐かしい花の笑顔を恋しく思った。 * 二人には申し訳ないことをした自覚はある。それでも自分は――。自室で休んでいるはずのサフィアは今、照りつく太陽光と大地のぬくもりを浴びて歩いていた。昔からサフィアは城を密かに脱走するいたずらを繰り返し、未だ発覚したことはない。普段は看守で固められている城塞と城壁。しかし、幼い頃から城内の建築構造と看守の動きを熟知するサフィアには造作もない。都市を囲む天高き城壁には唯一補修されていない、サフィアのみ知る抜け穴がある。茂った芝生に隠れた抜け穴を潜ってサフィアはファジュルの外へ出ていた。城からの脱走法も、秘密の抜け穴も、それを芝生で隠したのも――全て()と作った二人だけの秘密。 城壁の外は豊かな広野と灼熱の大気に満たされている。遠くには青天にそびえる柘榴型(ざくろがた)のロッマーン山岳が見える。太陽に熱された陽色と若草色の野原、そこに点在する緑豊かな森林。赤褐色に燃え艶めくる荒野と山岳。灼熱の地を潤し、豊穣の泥を恵む運河。自然豊かで温かなアズルイラの大地、逞しく生きる民の笑顔と恵みに満ちたファジュルを、サフィアは愛していた。それでも今のサフィアの心は埋め難い空虚に支配されている。 ファジュルから歩いて約二十分。黄金の陽に輝く平野に忽然と佇む緑深き「アクダルの森」に辿り着いた。一見無害な緑の闇から外を窺っていた動物達は姿を現した。 「こんにちは、みんな」 雄々しく尖った角のガゼル、金色の立髪をなびかせる獅子、鋼鉄のような爪と巨体を光らせる黒い熊に、サフィアは親しみの笑顔で語りかけた。無垢なる森の住民は来訪者が敵ではないと分かると、穏やかな沈黙でサフィアを歓迎した。清浄な緑の深淵を満たすは、彩り咲く草花、豊かな果実と木の実の甘い芳香。安らかな静寂に響くのは、森に棲む生命の吐息と歌声。緑の狭間で煌めく陽光の柱、冷え澄んだ川水は、外に広がる昼の灼熱や夜の極寒からアクダルの森を守る。 そう、アクダルの森にいれば、痛みも苦しみも、悲しみも孤独も、怒りや憎しみも感じなくて済む。いつかきっと()も――。 『サフィア。今日は何をして遊ぼうか?』 かつて、アクダルの森には彼がいてくれた。物心ついた頃から私は城を抜けて森を訪れては、彼と友達と一緒に穏やかな時間を過ごした。 『アルド! えっと、えっとね、この間教えてくれた海色の花探しと、果実と木の実摘みでしょ、川で水浴びしながらおっきな銀の鯉を釣って食べたいし、ナツメヤシの木下で日向ぼっこして、それから、それから……』 『あはは。慌てなくても大丈夫だよ、サフィア。サフィアのしたいこと、全部叶えてあげるよ』 『本当!? ありがとうっ。ただ……私もアルド達ともっと遊びたいけど、すぐに日が暮れちゃう』 『大丈夫だよサフィア。遊びきれなかったら、明日も森に来たらいいんだ』 森を棲み家にしていた神秘的な美しい青年「アルド」。いつも温かに微笑みながら、大丈夫だよと安らぎをくれた優しい、大好きな人。淡いお日様色に煌めく長い髪、緑王石(グリーン)に澄んだ優しい瞳、純白の花を彷彿させる白い肌に柔和な微笑み。女神のような美しさ、自然の慈愛のような輝き。けれど無垢な白い外套にゆったりと包まれた体躯は、父親のように高くて大きくて力強かった。 『おいでサフィア。僕にしっかり掴まって』 アルドの広い胸に抱きしめられると、自然のぬくもりか父母の慈愛に包まれるように心安らげた。サフィアも森に棲む動植物達も皆、強くて優しいアルドを敬慕した。アルドもあらゆる動植物と自然を友達として愛し慈しんだ。さらにアルドには、美しくて優しい不思議な力もあった。 『お母さんとはぐれちゃったのかい?』 『そうなの? 小獅子(この子)は迷子だったのね』 森で母獅子とはぐれた小獅子を見つけた時のこと。 『大丈夫だよ。僕がお母さんの所へ帰してあげる。だから元気出して』 『! 綺麗……』 『ふふっ。笑ってくれたね』 アルドの手が大地へ触れると、そこから可憐な海色のネモフィラ が咲いた。無垢な瞳を不安げに揺らす小獅子と心配そうなサフィアを励ますように。 アルドは動植物の声を理解して語りかけたり、大地から草花や樹々を咲かせたりすることができた。 『サフィアは僕が守るよ』 女神さながらたおやかな雰囲気からは想像し難い、勇壮で高い身体能力も備えていた。獅子や岩石を片手で頭上へ持ち上げる怪力に、地面から樹の頂や遠く離れた野原へ跳躍できる軽い身のこなしと神速。アルドは人智を超えた神秘的な力で私と友達を楽しませ、癒し、助けてくれた。アクダルの森の守護神さながら慕われたアルド。今思えば、きっとアルドは本物の神様だったのだろう。優しくて、強くて、温かいアルドを、サフィアはずっと、今も。 『ねぇ、アルド。これからもサフィアと……ずっと一緒にいてくれる?』 笑顔を忘れていない幼き自分の言葉が記憶の箱から響く。小さくて切ない、たった一つの願い。甘い窒息感、焦がすような動悸を伴う愛しさも切なさも、全部アルドが教えてくれた。ずっと一緒にいたいと願った。たとえ大人になっても。過酷な大地に息づく生命にとって美しく優しい聖域のようなこの森で、自然と動物(友)達の温かさ、アルドの慈愛に包まれながら――。 『約束するよサフィア。この命尽きない限り、僕はずっとそばにいる』 我が愛し子を永遠に慈しむ母のように優しい微笑み、父のように力強い響きでアルドは囁いてくれた。サフィアにとって決して忘れられない大切な約束。しかし今は。 「ねぇ、アルド。あなたは今どこにいるの……?」 もしかしたら、姿が見えないだけで自分の近くにいるのだろうか。アズルイラの自然と一体化する神々と同じように。それとも、やっぱり手の届かない遥か遠くへ旅立ってしまった? サフィアは未だ分からない。サフィアが十二歳だった頃、アルドはアクダルの森からいなくなってしまった。何の前触れもなく、忽然と。サフィアに別れも行き先も、理由も告げることなく。 数年もの間、サフィアはアルドを待ち続けた。いつか必ずこの森へ帰ってくる、自分との約束を守ってくれると信じて、今もずっと。 「アルド……私、あなたのことを信じてるから……」 アクダルの森と無垢なる友達は、今のサフィアにとって唯一残された心の拠り所。しかし、悲しみや煩しさとは無縁な愛しき友達と自然に囲まれていても尚、サフィアの心の穴――アルドへの恋しさと寂しさだけは埋められない。 「あなたが帰ってくるの、ずっと待ってる。だから……」 アルドとの幸福な記憶と約束は、彼に恋い焦がれるサフィアの心を慰め……同時に甘く切ない呪い(・・)となり、いつしかサフィアは笑わなくなった。親愛なるファジュルの民にも、母親と等しくそばにいてくれたハニファ、優しい幼なじみの婚約者アシュラフに咲かせた天真爛漫な笑顔は見る影もない。アルドが姿を消して以来、彼以外の人間と深く関わることをサフィアは内心恐れるようになった。心を深く閉ざしてしまったのは、アルドを忘れられないから。 「アルド……あなたに会いたい……っ」 サフィアの静かな慟哭は、緑の静寂に虚しく溶けた。今日もアルド無き森に人知れず沈みながら、平穏で虚しい一日を過ごす。かつてアルドに肩を預けて微睡(まどろ)んだブナの根っこに座って涙するサフィアに、無垢で愛らしい友が駆け寄る。 「あ……ふふ。来てくれたの? いつも慰めてくれてありがとう……私は大丈夫よ」 サフィアの足元に寄ってきたのは、つぶらな黒目を丸くする子リスの家族。サフィアが泣いていると。子リス達は無邪気に近づいてきた。親愛の証を示すように肩に乗り、柔らかな鼻と(ひげ)で頬を撫で、芳しい木の実を持ってきてくれる。 「あら……どうしたの?」 しかし、どこか落ち着きなく右往左往する子リス一家の様子から、サフィアは違和感に気付いた。リスの子達(この子達)はいつも七匹で行動していたはず。しかし、内一番小柄で薄茶色の子がいない。まさか迷子だろうか。子どもリスが一匹消えた事態に、子リスの群れは狼狽している。 「大丈夫、私も手伝うよ。手分けして探そう?」 森の子リス一家の助けになりたいサフィアは優しく語りかけた。サフィアは子リス長男を肩に乗せて、森中を探し巡った。しかしサフィアの努力と祈りも虚しく、末っ子リスの影も音すら見つけられない。普段は滅多に踏み入れない森の最奥まで歩いたサフィアを焦りと疲労が襲う。そのせいかサフィアの胸に募った想いが切なく胎動する。 「こんな時、アルドがいてくれたなら……」 心細くなったサフィアはアルドの存在を呟かずにはいられない。アルドはアクダルの森に眠る声、生命の鼓動と息吹を聴き取れた。アルドの力をもってすれば、消えた子リスの場所を特定することも、そこへ数秒で駆けつけることもできる。幼いサフィアがよく森で迷って泣いていた時も、大切な花や木の実、友を見つけたい時も、いつもアルドは必ず見つけてくれた。けれどサフィアや森の友を助けてくれたアルドはいない。虚しい現実に迫る夕刻の緋色に、サフィアは心挫けそうになる。 「ごめんね、心配させちゃって。大丈夫、きっと見つかる。見つけるまでずっとそばにいるから」 沈痛に俯いて歩むサフィアを心配する子リスのぬくもりに目が覚めた。サフィアだけではない。アルドの帰りを一緒に待ち続けてくれる大切な友のために、自分が諦めてはダメだ。サフィアは弱気な自身を心内で激励すると、顔を上げて駆け出す。いつもアルドがくれた優しくて頼もしい言葉を零して。 「見つけた……!」 緑の深淵を突き抜けて数分後、サフィア達は森を抜けたすぐ先に広がる黄金色の野原に出た。すると草むらの岩上で呑気に木の実を頬張る末っ子リスを発見した。 「こんなところにいたのね……お母さん達も心配していたよ? でもよかった……」 末っ子リスの無事な姿にサフィアは長男リスと共に安堵を漏らす。しかし、優しく微笑むサフィアが末っ子リスに駆け寄った矢先。 「え……?」 末っ子リスのいる岩の一歩手前でサフィアの足は止まった。瞬時に青褪めたサフィアの瞳に映ったのは、末っ子リスの背後で揺らめく夕影――に燃え溶ける獰猛(どうもう)な気配。 「危ない……!」 夕影に仄光った瞳孔を捉えたサフィアは、末っ子リスへとっさに手を伸ばした。間一髪の所で動いたサフィアは子リスを抱きしめたまま体勢を立て直す。信じられない光景がサフィアの瞳に焼きつく。 「嘘……何故こんなところに……?」 神獣(イラ・ワハシュ)が――?金の炎色に揺らめくたてがみ、鋼鉄に艶めく獰猛な爪と牙、心臓の血管さながらの筋肉をドクリと脈立たせる紅蓮の四肢。野生動物とは一線を画す異形は、見た者を戦慄させる。 サフィアが驚愕するのも無理はなかった。ファジュルで代々語り継がれてきたアズルイラ神話の粘土板。そこに描かれた神々の使役獣の一柱ウリディンム(狂い吼える獅子)が目の前にいるのだ。天界と冥界で神々に仕える神獣が独断で地上へ出て、人間の前に現れるなどありえない。サフィアは夢を見ているような錯覚へ一瞬陥りそうになる。しかし憎悪に血走る眼球と視線が絡んだ瞬間、燃えるような動悸と凍えるような戦慄が走った。これは確かな現実――。 「に、逃げて……! あなた達だけでも早く!」 せめて子リス達を助けたかったサフィアは、背後にある森の茂みへ子リス達を放り投げた。神秘の力に守られたアクダルの森にいれば、彼らは無事に逃げ切れるはず。 「あ……」 しかし、一人残ったサフィアは恐怖に足を絡め取られ、思わず膝をついてしまう。慌てて立ち上がろうとしたが足の震えは止まらない。凍直するサフィアの目前へ、獰猛な牙を光らせるウリディンムは迫る。逃げられない……! 獲物を目前にウリディンムは吠え猛りながら、鋭利で凶悪な爪をサフィアめがけて振り下ろす。 「っ……! 助け、てっ」 アルド……! 死の覚悟に瞳を瞑ったサフィアは無意識に助けを求めた。瞼の裏側に浮かぶのは、いつもサフィアを脅威から守ってくれたアルドの頼もしい腕のぬくもりと優しい微笑み。アルドはいない。いくら呼んでも来てくれない。自分の声は届かない。なのに最後までアルドを求めてしまう諦めの悪さに、サフィアは自嘲したくなった。しかし、迫り来るはずの死の痛みはいつまでも訪れなかった。怪訝な不安に駆られたサフィアは固く閉じた瞼を恐々と開いた。 「え……?」 ほんのり霞む視界に映った光景に、海色の瞳に波紋が生まれた。仄暗い夕陽色の水飛沫。そよ風になびく淡い黄金の輝き。 「まさか、こんなところにまで神獣が徘徊していたとは」 ぐるる……がああああ……! 「君達(・・)の無念も憎悪も理解はできる。けれど、襲う相手を間違えたね。許してくれとは言わない。だから……」 凛と美しい声、鋭い金属が肉を裂いた音色は理性なき獣を鎮圧した。慈悲と敬意を込めた言葉に冷徹な声色は神を彷彿させたが、サフィアは知っている。忘れるはずはない。耳朶を撫でる度に、サフィアの胸を甘く満たした温かな声を。 「まさか……あなた」 白い樹木さながらしなやかで美しい手には、獣を葬った白金の刃。淡い黄金の天の川さながら長い髪が夕陽に美しく舞う。聖なる白の外套を纏った広い背中はサフィアに振り返った。 「ただいま(・・・・)、サフィア」 花のように優しい微笑みを咲かせる相手に、サフィアは海色の滴を零した。 「っ――アルド(・・・)……!」 サフィアにとって恋しくてやまなかった存在が目の前にいる。夢のような現実に動揺を抑えられないサフィアを、懐かしくて愛しいぬくもりが包み込む。 「サフィア……」 決して夢ではないことを訴えるように、アルドはサフィアを抱きしめる腕にそっと力を込めながら名前を優しく呼んだ。 *****
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