第二章『原初の邂逅』

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第二章『原初の邂逅』

ずっと君に逢いたかった。 君の声を聞き、君に触れたかった。 神にとって取るに足らない刹那が久遠に感じられるほど、君に想い焦がれた。 ずっと君を見つめてきたはずなのに。いざ瞳に映した君自身は、あまりにも純粋で美しかった。あまり無垢で愛らしい魂にこの手で触れることすら憚られた。 それでも、僕のような存在に許されるはずのない衝動を抑えることはできなくて。 ようやくこの腕で君を抱きしめた歓喜を噛み締めながら、心内で(こいねが)った。 このまま君の全てを愛おしみ――壊してしまいたい(・・・・・・・・)、と。 * 虚ろ渇いた心の砂漠に花が咲いたような歓喜。目の前に彼が――ずっと逢いたかったアルドがいる。 「サフィア。君に逢えてよかった」 夢ではないと告げるように、アルドは柔和な花のように頬笑む。アルドはサフィアを呼んでくれた。昔と変わらない、どこまでも優しく澄んだ声で。 「っ……アルド! アルド……っ」 「サフィア……?」 考えるよりも先にサフィアの手足は動いていた。目の前の存在を確かめるように、サフィアはアルドを呼びながらしがみついた。アルドはサフィアの行動に目を丸くしつつも、やはり彼女を優しく受け止めた。神獣から間一髪助けられた安堵によるものと思ったアルドはサフィアを穏やかに慰める。 「よしよし、怖かったよね。でも、もう大丈夫だよ」 「あ……ごめんなさい。その……アルド、私……あなたにずっと逢いたかったから……嬉しくて……っ」 サフィアが堰を切ったように泣き縋ってきた理由にようやく気付いたアルドはハッと息を呑む。再会の歓喜、ひたむきな思慕に澄んだ涙を零しながら頬笑むサフィアを、アルドは優しく見下ろす。 「本当に……夢ではないのね……?」 「……ああ。夢じゃないよ、サフィア。僕と君は今、確かにここにいて、こうして触れ合っている」 「アルド……っ」 「ごめんね、サフィア。本当は僕もずっと君に逢いたくてたまらなかった……っ」 アルドの眼差しも甘い切なさと歓喜に揺れる。美しく澄んだ涙を指でそっと優しく拭ってくれたアルドはサフィアを抱きしめ返した。もう離れないように力強く、けれど慈しむような優しさで。アルドが突然姿を消した理由も、今になって帰ってきた経緯も既にどうでもよかった。アルドも同じ気持ちでいてくれた。ただそれだけの事実、アルドのぬくもりは空虚な寂しさに渇いていたサフィアの心を潤い満たす。 「そうだ、サフィア。早くここから離れよう。もうすぐここも危険になる」 互いに再会の喜びへ浸るのも束の間。真剣な眼差しに変わったアルドは、サフィアを強く抱きしめたまま静かに警告する。 「アルド……そういえばさっきの神獣は一体」 「急ごう、サフィア」 サフィアの疑問に答える間も無く、アルドは彼女を横抱きにすると素早く地面を蹴った。驚くサフィアを抱えたアルドの体は、夕焼けの広野を翔(かけ)る。昔と変わらない超人的な跳躍力と神速に感心する中、サフィアは見てしまった(・・・・・・)。 今は遥か遠い背後、アクダルの森を囲いと蠢くウリディンムの群れを。アルドが倒したウリディンムは、知らぬ間に群れを呼んだのだろう。森の入り口を塞がれた今、アルドは別の安全な場所へ避難しているのだとサフィアは察した。 もしもアルドが現れなければ、今頃サフィアはあの紅蓮の塊の餌食に……。 おぞましい末路を想像し、震えを止められないサフィアはアルドの広い胸へ顔を寄せた。サフィアの恐怖と不安を感じ取ったアルドは優しく囁きかけてきた。 「大丈夫だよサフィア。君だけは僕が何としても守るから」 数年前と変わらない優しい声と約束に、サフィアの震えは自然と収まっていく。代わりに心臓だけは甘い緊張に震えたまま。 「アルド……この森は一体。初めて来たわ」 「そうだろうね。でも安心するといいよ。アクダルの森とは違うけど、この森も神の加護が濃いから、さっきの神獣も侵入してこないはずだ」 天空が藍紫色に染まった頃、サフィアとアルドはファジュルから離れた平野にある「アルズ()の森」に辿り着いた。天高くそびえる巨樹の柱か並び、凸凹した新緑の道の谷間から優しいせせらぎが奏でられている。不安定な足場を踏み進む時も、アルドはサフィアを大事に抱えたまま離さなかった。サフィアにはそれが素直に嬉しくて恥ずかしくもあった。 「そうだ……どうしましょう、アルド。私、城の人に何も言わずに出てきてしまったの」 森林を抱擁する夜の仄闇、狭間から降り注ぐ月明かりにサフィアは我に返った。サフィアはハニファ達に秘密で城を脱走し、しかも夕刻を過ぎても帰ってきていない。となれば、今頃城中は混乱状態に陥っているはずだ。事態の大きさを理解したサフィアは狼狽し始めた。 「それなら心配しなくても大丈夫。事情は全てハニファさんに伝えてあるんだ。僕が君を迎えに行ったことも知っている」 「どういうこと……? 」 アルドがサフィアの前に突如現れた理由、サフィアの置かれた状況をハニファは把握済みだと言う。サフィアが素朴な疑問に首を傾げていると、空洞のある巨岩を発見した。 「今日はここで夜を明かそう」 小さな洞窟のような造りになっている巨岩の洞内は、冷たい夜風を凌ぐのにちょうどよかった。とはいえ、サフィアは城以外の場所で夜を明かすのは初めてだ。本来であれば心 躍る未知な体験。しかし今の不穏な状況ではやはり不安は拭えない。 「色々なことが急に起こって不安だよね……ごめん、サフィア」 「どうしてアルドが謝るの? むしろアルドが助けに来てくれて嬉しいの」 「うん…伝承(・・)を考慮すれば不可避だったけれど、結局君を巻き込んでしまった」 憂い揺れる瞳からサフィアの不安を感じ取ったのか、アルドは申し訳なさそうに謝る。深みを帯びたアルドの瞳はどこか悲しげだ。初めて見る表情に胸を痛めるサフィアは、何とかアルドを励ましたくなった。 「気にしないで、アルド。どんな形であれ、私はあなたに逢えて、本当に嬉しい……っ」 「サフィア……」 不安を振り払うように柔らかく微笑みかけるサフィア。切なげに揺れていたアルドの瞳に安堵が灯った。 「そういえば、何故地上に降りるはずのない神獣が現れたのかしら。しかも確かウリディンムは……」 アルドの表情が少し和らいだ様子に安堵したサフィアは、素朴な疑問を零した。するとアルドは神妙な面持ちで数秒ほど逡巡してから答えた。 「君を巻き込んでしまった以上、君にちゃんと話さないといけない。たった今、アズルイラに降りかかっている『災厄の回帰(・・・・・)』について……」 「災厄の、回帰……?」 真剣な口調で紡がれた初めての用語にサフィアは首を傾げる。アルドの陰りある眼差しと不穏な響きから、アズルイラ全体に災いが起きていることは窺えた。 「それを食い止めるために、僕は再び地上へ戻ってきた。何より、君を守るために(・・・・・・・)――」 最後の台詞に燃え秘めたアルドの強い意志。聖なる肥沃の地に未曾有の危機が迫る状況下、不謹慎にもサフィアの心臓は甘い熱を帯びていた。 * これは世界と人間が生まれる前の神話。 かつて世界は原初の海に包まれていた。生命の根源たる原初の母神「バハル(海水)」、世界と神々の王たる夫神「ナハル(真水)」の交わりによって、様々な神々と神獣は生まれた。 バハルは星の数ほどの生命を生み、全ての生命を愛しんだ偉大なる母神。愛しの我が子のために、バハルは何でも為してあげた、何でも与えた、何でも叶えてあげた、何でも許してあげた。しかし母神バハルを我がものにしようと画策した一柱の神様(子ども)がいた。大いなる母神の慈愛を独占し、世界を統べる神王の座を簒奪するために。後に世界と人間に「永劫なる原罪」を刻んだ始まりにして邪悪なる神の名は――。 * 「邪神イステヤ(・・・・)……?」 「かつて大いなる原初の母神バハルを惑わした始まりの神にして原罪……イステヤ神が復活しようとしている」 今までになく真剣な表情と憂いの眼差しで説明するアルドに、サフィアも固唾を呑んで聞き入る。久遠の過去、世界を満たしていた原初の海・母神バハルから神々と世界、アズルイラ地方、生命が生まれた創造神話はサフィアも幼き頃から教えられた。蒼海色の瞳と髪を持って生まれた自分は、偉大なる母神バハルの生まれ変わりとして大事にされたことも。しかし聞き覚えのない神の名に、サフィアは怪訝に瞳を揺らす。 「サフィアが知らないのも無理はないよ。イステヤ神は、人間に刻まれた永劫なる原罪の根源。神々の最大の汚点(・・)として葬られたイステヤ神は、ほとんど存在を忘れられたからね」 サフィアの疑問は当然らしく、アルドは子どもに語るような丁寧さで説明してくれた。 イステヤ神は母神バハルの息子にして、亡きナハル神に代わる夫に選ばれた。しかしイステヤ神は愛する母バハルを誘惑し、父ナハルの死は他の神々(子ども達)・アヌ神達のせいだと(そそのか)した。邪悪なイステヤ神は、ナハル神の仇討ちと世界の支配権の奪還という名目で母神バハルと十一の神獣(子ども達)の軍勢を率いて、アヌ神達に戦いを挑んだ。イステヤは母神の力を借りて邪魔なきょうだいを葬ることで、神王として母の愛と世界の支配権を独占することだった。 「しかし、イステヤ神の野望は偉大なる武神アダーラの威光の前に潰えた。母神を(たぶら)かし、世界を壊滅寸前に追い詰めた罪人としてイステヤは処刑された。そしてアダーラ神はイステヤ神の血液から人間を創ったと言われている」 「人間が、イステヤ神の血から創られた……?」 サフィアが驚くのも無理はなかった。神々は自分達に代わる労働力として粘土から人間や動植物を創ったのが通説だ。しかし、アズルイラに代々語り継がれてきた伝承神話に含まれなかった驚愕の事実に、サフィアは戸惑いを隠せない。サフィアの動揺は想定内らしく、アルドは冷静に語り続ける。 「一方我が息子であり夫だったイステヤ神の重罪、唆されたとはいえ世界と我が子を殺しかけた罪を贖うために母神バハルは……」 後はアズルイラの伝承通り。母神バハルは己の肉体を切り落とし(・・・・・・・・・・)肢体のパーツから世界を創り直した(・・・・・・・・・・・・・・・・)。背中は大地、腹部は天空、山々や砂漠とオアシスは乳房と母乳、二大運河は血液、四肢は巨樹、ダムア海は眼球と涙であると言い伝えられた。 「新たな神王に座した天空アヌの裁定、武神アダーラ神の手腕によってイステヤ神は消滅したはずだった。けれど、最近になって天界の神獣達が神々に反旗を翻し、冥界に投獄されていた神獣までもが地上へ解き放たれ、アズルイラを襲い始めた」 「神様に仕える神獣までもが、どうして……?」 「地上へ降りてきた神獣は先程のウリディンムの他、バシュム(毒蛇)ムシュフシュ(蠍竜)等……彼らの共通点は、かつてイステヤ神に率いられた軍勢「バハル神の十一の子ども達」だ」 イステヤ神共々捕縛された神獣達は、死罪・囚獄・懲役に処される者に分別された。 「イステヤ神の死以来、天界で神々に仕えてきた神獣は何故、今頃反旗を翻したのか分からない……。ただ僕とアヌ神様の推測では、神獣はアズルイラの人間を殺して(・・・・・・・・・・・・)イステヤ神を復活させようとしている(・・・・・・・・・・・・・・・・・)のではないかって」 「そんな……どうして」 「はっきりしたことは僕にも分からないけれど……アズルイラの人間の祖・イステヤ神の血から生まれた事実を鑑みれば、筋は通っていると思う」 イステヤ神の血から創られた人間の血肉を触媒に、イステヤ神を蘇生する。ソーセージを分解し、その素材となった元の肉塊へ復元するような暴論に聞こえるが。アルドの明かした話全てをサフィアは直ぐに呑み込めなかった。ただアルドが今最も伝えたがっていることだけは分かった。かつて葬られたはずの災厄の神の回帰によって起こる世界の危機、そのために払われる犠牲の重大さを。アルドは「災厄の回帰」を止めるべく帰ってきてくれた。アズルイラを……サフィアを守るために。 「サフィア……?」 「あ、ごめんなさい、アルド……っ」 心配そうに覗き込んでくるアルドの表情で、サフィアは初めて気付いた。自分が瞳に薄らと涙を浮かべて震えていることに。 「ごめん、サフィア。さっきまで怖い目に遭って、僕から急にこんな話を聞かされて、不安で戸惑うのは当然だよね」 「いえ、違うの……ええ、確かに不安もあるけれど……ただ、母神バハル様はどんな気持ちだったのかな……て思って。上手く説明できないけれど」 サフィアの涙は単なる心細さに帰しているのではない。サフィアの言葉が意外だったのかアルドは目を丸くする。伝承でのみ知る存在とはいえ、自分と関係の深いバハル神。母神バハルが今のアズルイラと世界を創った知られざる経緯、闇に葬られた裏切りの息子()の存在。愛する者と結ばれる幸福と苦難、子どもを生み育んだ経験もサフィアにはない。 それでも母神の心中を想像して胸が切なくなった。愛する夫を喪った悲しみを我が子に利用され、愛する子どもも世界も滅ぼしかけた贖罪のために自ら死を選んだ。人間の身には想像し難い、まさに心身を引き裂かれるような悲痛さ。邪神復活の影と危機、母神バハルの悲嘆秘話に、サフィアは言葉にし難い悲哀と不安を抑えられなかった。 「サフィアは優しい()だね……」 「アルド……?」 「本当に……昔から、変わっていない……」 俯くサフィアの頭から波打つ海色の髪をアルドは優しく撫でた。頭上と耳朶(じだ)を掠めた(ささや)きは甘く、心なしか最後は深みを帯びていた。この時のアルドの表情を見逃したが、彼の醸し出す雰囲気がほんの少し変わった気がした。本能的な違和感に駆られたサフィアはアルドを下から覗き込む。 「そうだ何か食べようか。サフィアもそろそろお腹空いたよね?」 「え? あ……」 アルドに指摘されて初めてサフィアは空腹を思い出した。条件反射で鳴った空腹の音にサフィアはひどく気恥ずかしくなった。 「ご、ごめんなさい。アルド」 「何故謝るんだい? ふふっ。大丈夫。一応食べるものはこの森にもあるから」 いたたまれないサフィアにアルドは呆れ顔一つすることなく、幼子を見つめる慈母さながら柔和に微笑む。女性のように滑らかで美しく、男性のように逞しい手が差し出される。 「おいで、サフィア」 昔と同じ優しい仕草と声かけ、温かな眼差し。懐かしい幸せに瞳が自然と熱くなると同時に、かつてないほどの甘い緊張に心臓が震えた。久しぶりにアルドの手へ触れた瞬間、指先から全身が熱いのに心地良い感覚に満たされた。 * 「ごちそうさまアルド。美味しかったわ」 「よかった、懐かしいね。昔も森の中で一緒に食べたね」 「ええ……」 アルドはサフィアを連れて森の小川で新鮮な魚を、樹々でたわわに実った果実や木の実、きのこ類を採ってくれた。「災厄の回帰」に憂うサフィアの気分転換も兼ねて、アルドは気を遣ってくれたのだろう。昔もアルドは人間のサフィアが食べられるように焼き魚や森の実だくさんスープをわざわざ作ってくれた。温かくて懐かしい森の恵みの味を大好きなアルドと一緒に楽しめている。こんな状況ではあるが、目の前にずっと恋い焦がれていたアルドがいるだけでサフィアは幸せだった。反面、ファジュルにも迫っているかもしれない神獣の存在と民の安否、サフィアを心配しているであろうハニファ達を思うと、何だかいけないことをしている気持ちになる。 「ファジュルが心配かい? サフィア」 「ええ……分かるの……?」 「サフィアの顔を見ればね。昔からサフィアを見てきたから」 気付けば不安な表情を再び浮かべていたせいか、アルドはサフィアの心配を鋭く察した。昔からそうだった。いつもアルドはサフィアの心を手に取るように理解してくれた。それこそ共に過ごす時間の長いハニファやファジュルの人間、幼なじみのアシュラフよりも。生来の素直で心優しい性格、と昔は過保護に育てられた故に、周りを気遣うことの多かったサフィア。そんな彼女が本当に望むことを見透かし、叶えてくれたのはアルドだけだった。本当はもっと森の中でアルドと一緒にいたいけど、城に早く帰らないといけない。そう思った時、アルドはサフィアを抱えて高速飛行で城へあっという間に送ってくれた。 本当はもっと毎日森へ行きたいが、城の人達の心配や稽古があって我慢していた。そんなサフィアにアルドのほうから密かに会いにきてくれた。サフィアがいつでも森へ行けるように、他人には分からない秘密の脱走法も抜け道も作ってくれたのはアルド。久しぶりの再会だったせいか。アルドがサフィアの心を正確に読んだことへの軽い驚き、そして「昔から見てきたから」という何気ない台詞にサフィアは甘い羞恥と歓喜を覚えていた。 「ア、アルド……?」 またしても不安な表情を浮かべてしまったようだ。アルドはサフィアを安心させるために優しく抱きしめてくれた。懐かしい爽やかな緑の香りとぬくもりに包まれたサフィアの胸は甘く高鳴る。 「安心しておくれサフィア。君の愛するファジュルもアズルイラの大地も……何よりも大切な君は必ず僕が守るから。そのために僕は再びこの地へ降りてきた」 アルドの広い胸に身を委ねるサフィアの頭上で彼は囁いた。悪夢に怯える我が子あやす慈母のように。けれど声は我が子を命がけで守る慈父のように力強く響いて。 「ありがとうアルド……あなたが会いに来てくれて本当によかった。でも一つ訊いてもいい?」 「うん、何かな?」 「今回アズルイラに迫る災厄と……数年前にあなたが姿を消した事は何か関係あるの?」 頭の片隅に置いていた疑問をサフィアは投げかけた。アルドが音沙汰もなく突然いなくなったことでサフィアはどんな気持ちになるのか想像できない彼ではない。ならば数年前の失踪も何か理由があるのではないか、と。一方サフィアの問いに一瞬息を呑んだアルドは、悲しみとも怒りともとれない静かな眼差しで小さく呟いた。 「……やっぱり、覚えていないんだね(・・・・・・・・・)……」 しかしアルドのか細い呟きは夜風と樹々の音色にかき消され、サフィアの耳には届かなかった。 「ごめんなさいアルド。やっぱり今の質問は忘れて」 沈黙するアルドにいたたまれなくなったのか、サフィアは焦った様子で問いを撤回した。 「何故、君が謝るの?」 「それは……何となくアルドが悲しそうだったから。答えるのが辛いなら無理しないで。私はこうしてアルドとまた逢えて、一緒にいられるだけで、幸せだから」 切実な眼差しのサフィアはアルドの服の袖を強く掴む。ちゃんとしがみついていなければ、アルドが再びどこかへ消えてしまいそうで不安だったから。今度はもう片時も離れたくなかった。一方サフィアの態度は意外だったらしく、アルドは戸惑いに切なさを滲ませた声で問う。 「サフィア……君は恨んでいないのかい? 君に黙って姿を消した僕を……」 「恨むわけない……! だって私は……あなたをずっと好きだった……っ」 いつのまにかサフィアは堰を切ったように涙を零して叫んでいた。純粋な海の色に濡れた瞳にアルドだけを真っ直ぐ映して。ついに抑えきれなくなったアルドへの恋心をいざ明かしたら、サフィアは強い不安に駆られた。今の危機的状況で突然告白しても、アルドに迷惑をかけないか、と。そんな不安をかき消したい一心で、サフィアは反射的な謝罪を慌てて零そうとした時。 「サフィア」 もう一度、サフィアの名前を零したアルドの声は切なくて悲痛な色を帯びていた。サフィアの謝罪が言葉で奏でられることはなかった。アルドは華奢なサフィアを掻き抱き、片手で彼女の後頭部を優しく支える。 「アル、ド……? ん……っ」 太陽の光に抱かれた花びらのように柔らかなぬくもりが、サフィアの唇を満たす。二人の唇同士は自然と重なっていた。 「サフィア……サフィア……っ」 今まで耳にしたことのない切なくて甘い、胸を締め付けられる声で呼ばれる。驚きで目を見開いていたサフィアが口を開く間も無く、アルドの口付けは深みを帯びていく。唇から全身にかけて甘く幸福な熱が波及していく。 「アルド……っ」 「サフィア……好きだ……僕も、君が好きだ……っ」 「え……?」 わずかな唇の隙間から漏れたアルドの想いに、サフィアは信じられない心地で見上げる。動揺と戸惑い、けれどそれ以上の期待と歓喜に瞳を潤ませるサフィアに、アルドは微笑む。アルドへのひたむきな恋心に濡れた蒼瞳の瞼(まぶた)にも優しく口付けされた。 「突然、ごめん。でも、君も僕をずっと好きでいてくれたと知って、嬉しくてつい……」 「アルド、も……?」 アルドの心を知ったサフィアも自分を抑える術を失った。サフィアは自分の首をうんっと伸ばした。今度はサフィアの方からアルドと唇を重ねた。驚きに見開いた緑王石の双眸に、やがてサフィアと同じ歓喜が波及していく。 「子どもの頃からアルドのことが大好き……。ずっとあなたを忘れた日はなかった」 サフィアは頬を仄かに色づかせながら、花がほころぶように微笑んだ。アルドも心の奥から堰を切って溢れ出した感情を言葉と眼差しの震えで表す。 「サフィア……僕も本当はずっと君を好きだと伝えたかった。君の全てを抱きしめたくてたまらなかった……っ」 奇跡のような夜だ。ずっと恋していたアルド。大好きで逢いたくてたまらなかったアルドも、自分と同じ気持ちでいてくれたなんて。二人は互いを呼び求めながら、小さく熱いぬくもりを繰り返し重ねた。 「アルド……アルド……ん……っ」 「サフィア……サフィア……っ」 最初は花びらを撫でるように優しく触れては離れるを繰り返す。互いの唇のぬくもり、見つめ合う瞳と笑顔を確かめるように。けれど繋いだ手、背中に回した腕だけは離さないまま。 「ん……ふぁ……っ」 アルドの薄桃色の舌がサフィアの唇の隙間をそっとこじ開ける。サフィアの舌先へ触れた優しくて生温い感触。甘く痺れるような感覚がサフィアの舌先から喉奥を駆け、心臓を切なく締め付けた。たまらず瞳を開けば、アルドの綺麗な緑王石の瞳と視線が溶け合う。昔と変わらない慈しみに澄んだ眼差し。けれど内奥は未知の甘い激情に燃えて。アルドの白百合さながら清らかな雰囲気、無垢な優しさにそぐわない炎にサフィアは甘い戦慄を覚えた。 「怖い……? サフィア……」 母に嫌われる不安に揺らぐ子どものように切なく純真な眼差しで問うアルド。初めて見る不安げな姿に、サフィアの恐れはアルドへの愛おしさで拭われ、笑みすら零れた。 「怖くないわ。私はアルドが大好きだから……こうしてアルドに触れられることが幸せ……」 「サフィア……」 「アルド……あ……っ」 「ごめん……でも君がそんな愛しいことを言ってくれるから……僕はもう自分を……っ」 止められないよ……。絞り出すような囁きと共に、サフィアの唇から全身は、太陽の花のようなぬくもりと香りに抱擁された。 「アルド……私……っ。んぁ……!」 「サフィア、綺麗だね……っ」 さらに深まった甘い口付けに夢中で応えている内に、サフィアは生まれたままの姿にされていた。アルドの滑らかな手と唇はサフィアの唇から筋と鎖骨を優しく撫であげる。 「アルド、くすぐったい……ん……! ひゃ……あっ」 アルドの美しく大きな手、柔らかな唇はサフィアの胸元を這う。今まで味わったことのない甘い痺れがサフィアの胸元から下腹部を襲い、激しい身震いが起こる。可憐な少女と大人の女性の狭間にある美しい乳房の柔らかさとぬくもりを堪能した後、アルドの舌先が薄桃の突起を掠めたのだ。 「アル、ド……あ……っ。だめ……だめっ。何だか私、おかしく……んん……っ」 「おかしくないよ、サフィア……君の全部、とても綺麗で愛らしいよ……ん……っ」 アルドの唇と手は緩まる気配を見せない。それどころかサフィアがダメだ、と羞恥で訴えても彼女の本心を見透かすようにアルドは微笑む。熱情に潤む海の瞳、甘く湿った吐息、狂おしい旋律を奏でる鼓動は、サフィアもアルドを求めている証。アルドは熟した果実を味わうように突起を含み、舌先で舐め転がす。乳房の柔らかさと突起の固さを愉しみ続けるのも忘れずに。胸に顔を沈めるアルドの綺麗な手が、彼女の下腹部から大腿部へ根を張るように降りる。サフィアの内腿の奥に潜む熱源に誘われるように、アルドの細長い指がそこへ触れた。 「! ふぁ……あぁ……っ。アルド……アルドぉ……っ。ん……だめ……そこは……っ」 自分ですら全く未知な領域を侵す優しくも力強い指、血液を巡る自分と相反する甘く狂おしい本能。辛うじて理性の残ったサフィアの小さな手は、反射的にアルドの側頭部を押し返そうとする。しかし甘く優しい愛撫に震える手はアルドの耳元を掠め、淡い陽色に波打つ美しい髪をすり抜けて終わった。 「サフィア……君を好きすぎて、僕も止まらないんだ……っ。それにほら……君の体もこんなに……」 「! あ、やぁ……っん!」 今まで知らなかった甘い感覚。否、アルドに逢えなくなって以降は眠っていたに過ぎない愛しい衝動、狂おしい本能は今、アルドの手によって花開く。愛しいアルドに触れられる悦びに濡れ、熱を帯びていく身体にサフィアは我を失いそうで少しだけ怖くなる。 「やぁ……んっ。アルド、だめ……だめっ。それ以上されたら私……はぁ……! 怖い……っ」 「大丈夫だよ……サフィア……君の怖いことはしないから……」 アルドはサフィアの胸元から頭を上げた。眠り燻らせてきた激情に溢れていた愛撫は一旦止む。熱に浮かされた眼差しで茫然と見上げるサフィアを、アルドは優しく見下ろす。サフィアの乱れた前髪を撫で上げると、汗ばんだ額へ口付けを落とす。 「僕は君に優しくしたい。君の全てを愛したい……っ」 サフィアを慈しむアルドの言葉と口付け、眼差しに甘い安堵を覚えたサフィアの恐れは和らいだ。 「アルド……っ」 花びらの雨のような口付けと愛撫がサフィアの身体へ再び降り注ぐ。アルドの惜しみない慈愛と激情をサフィアは全て受け止め、感じていた。 「っ……! あぁ……! はぁ……っ」 「っ……サフィアっ」 アルドの熱く(たぎ)った(くさび)はサフィアを貫いた。サフィアの唇から甘い苦悶が漏れる。熱く湿った入り口から体の芯が火傷したようにじくりと鋭く痛む。結合部から生じる疼痛を和らげようと、アルドはサフィアへの愛撫も続ける。花の蜜露さながら濡れたアルドの唇と舌、良い所を的確に愛でる指先は甘い麻酔となってサフィアの心身を癒し溶かす。 「ふっ……んぁ……あ、あぁ……っ。あぁ……っ、アル、ド……っ」 「っ……サフィア……気持ち、いい……?」 「ふぁ……っ。き、聞かないで……ん、恥ずか……しぃ……ん、あぁ……!」 瞳を閉じて甘い快楽に耐えるサフィアに、アルドは無邪気に問う。しかしサフィアはアルドへの愛おしさ、一身に与えられる激情と熱に思考が上手く回らない。辛うじて率直な問いに湧いた羞恥心で応じるのが精一杯。サフィアの応答に物足りなさを感じてか否か、内奥を貫く律動はより力強くなる。 「恥ずかしがることないよ……っ。サフィアが僕に感じてくれているのは嬉しいよ……だから我慢しないでおくれ……」 「ふあ! あぁ……っ。アルド……! んん……っ」 「もっと呼んで、サフィア……君の可愛い声……もっと聞きたい……っ。君の瞳に、僕だけを映して。これからも、ずっと……っ」 慈愛に澄んだ瞳に灯る欲望、甘い吐息を貪る唇、震える手を繋ぎ止める力強い手。アルドの全ては花の鎖のようにサフィアの全てを慈しみ、支配する。やがてサフィアを苛んでいた破瓜の疼痛も胎内を貫かれる圧迫感は和らぐ。むしろアルドのひたむきな慈愛と激情を体感させる甘く狂おしい悦びへと変わっていく。 「アルド……! ふあぁ……やあぁ……っ。ん、アルド……っ」 「サフィア……僕のサフィア……君が、好きだ……っ」 「ん……私も、大好き……あぁ……っ」 互いのぬくもりで燃え猛る二人の体温と甘い香り、想いは一つへ溶け合う。逢えなかった時間と隙間を埋め貪るように。 「アルド……アルド……! っ……ふあぁあぁ……っ!」 「っ……! サフィア……っ!」 二人の想いは狂おしい陶酔感を伴って燃え爆ぜた。離れている間、互いの胸へ奥深く根付いた恋心から、甘く切ない愛おしさが溢れ咲く。 「っ……アルド……大好き……ずっと、そばに……っ、いて……」 サフィアの心に芽吹き咲くは、アルドへの愛おしさ、彼に愛される幸福。アルドの広く温かな胸に力無く顔を寄せ、肩で息をするサフィアは無垢に呟く。甘い倦怠感から微睡みへ沈むサフィアをアルドの腕は優しく抱きしめる。 「ああ……サフィア……もう君のそばを決して離れない」 「っ……嬉しい……アルド……」 二人の未来を約束するアルドの甘い囁き、優しい微笑みの気配にサフィアは安堵する。途端、サフィアはアルドのぬくもりに抱かれながら幸福な眠りへ沈んだ。サフィアの眠りを確認したアルドは、彼女の海水さながら美しく流れる髪を撫でる。 「約束するよサフィア。僕はもう君を離さない。永遠に(・・・)……ね」 サフィアの無垢な寝顔を飽くことなく眺めながら、アルドは一人ほくそ笑む。 *****
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