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第四章『原初の絶望』
ずっと妬ましかった。
君と言葉を交わせる人間達が。君に存在を認識してもらえる者達が。君に微笑みかけてもらえる人間が。君の優しさを享受できる者達が。
ずっと妬ましかった。
君の伴侶を堂々と名乗れる男が。君に恋心を寄せられていた男が。
君の笑顔を独占してきた眩しい存在がずっと――憎かった。
母を奪った者達と同じくらい憎くてたまらなかった。
けれどそれ以上に憎かったのは……無垢で美しい君にすら気付いてもらえない矮小な、魂だけの存在――。
*
砂漠と荒野一帯の広がる南西部はバシュムとギルタブリル、山岳地帯の並ぶ北東部はウシュムガルの群勢に制圧されていた。アズルイラにある都市国家の半分は、兵隊の迎撃と即急に築いた防壁によって神獣の都市侵略を食い止めている。しかし、大都市の増援が間に合わない小都市はほぼ陥落し、さらに被害が広がるのも時間の問題だ。
「ようやく彼女と連絡は取れたのかい? ファジュルの現状は?」
「ギギ、ギギッ……アゥア……」
アズルイラ南東部に位置するダムア海沿いの丘陵にて。アズルイラに災厄をもたらす黒幕たる復讐の邪神イステヤは、各神獣の軍勢の動向を確かめ、指揮していた。
「ふぅん……さすがはファジュル。最高神アヌを信奉する最大都市国家なだけあるね」
ウリディンム軍の親分からファジュルの現状報告を耳にしたイステヤは、皮肉を込めた笑みをくすりと浮かべる。肝心のファジュルは、イステヤが想像したほどの混乱には未だ陥っていないようだ。従来の難攻不落な城壁、さらにその周りを泥煉瓦と木材の堰壁による二重防護で固められている。鍛錬された兵隊も神獣の軍勢との防戦と均衡を保っている。神獣に陥落された都市から命辛々逃げ延びた難民を受け入れてすらいる。
「今回の騒動には、さすがのアヌ神と他の神々も危機感を覚えたか」
ファジュルの国防力と巫女達の祈祷は、原初の神獣による猛攻に堪えるだけの強さを備えている。これも最高神アヌを含む高位の神々による加護を賜り、その名誉によって築かれた栄光と国力のおかげだ。神々にとって人間は都市神を主として信奉し、隷従する道具に過ぎない。しかし災厄の回帰がもたらすアズルイラ滅亡を危惧したのだろう。神々も重い腰を上げて人間に助力し、イステヤ神の軍勢による侵攻に対応している。とりわけアズルイラの中枢たるファジュルの陥落だけは避けたいのだろう。普段は高みの見物に徹するはずの神々の焦りを感じ取ったイステヤは嘲笑を零す。
「それじゃあ、引き続き現場の指揮を頼むよ。この地を人間どもの『血と魂の嘆き』で埋め尽くせ。さすれば我らの母の復活は叶う」
イステヤはウリディンムに一旦指揮を預けると丘の上から飛翔した。戦線離脱したイステヤの行き先は南西部の拠点。赤褐色の岩原を駆け登った岩丘にそびえるのは、小さな洞穴の浮かぶ巨大洞窟。イステヤは洞窟内を巡回するバシュム達に目もくれず、長く仄闇を突き進んだ。やがて見張りのギルダブリル二体が佇む鉄格子付きの小さな洞穴に辿り着いた。見張りに声をかけてから鉄格子の鍵を開けたイステヤは洞穴の闇へ溶け消えた。
ちょうど長身の成人男性二人分が辛うじて並べられる狭い洞穴の闇を、イステヤはどこか嬉々とした足止まりで突き歩む。細長い闇道の先に広がる空間で大切に収納された唯一無二の宝を愛でるために。陽光から遮断された点を除けば、一人で過ごすには広く快適な部屋。ガラスに閉じ込めた黄金と紅玉(ルビー)の花びらが煌めくテーブル。鷹の上質な羽毛で縫われたソファ。翡翠製の戸棚。都市の王族と貴族しか持ち得ぬ一級品の家具は、都市を陥落させた神獣の戦利品から見繕ったものだ。
「ただいま、サフィア」
金箔と瑠璃石の星屑を散りばめたレースカーテンが舞う天蓋付きの高級ベッド。上質なシーツの上で身を縮こませている少女にイステヤは柔らかく声をかけた。しかしサフィアは膝に顔を埋めたまま返事をしない。サフィアが受けた仕打ちを考えれば、イステヤと顔を合わせたくないのは理解に容易い。
「サフィア」
「っ……おかえり、なさい」
名前をもう一度呼んだイステヤの声に、サフィアは耳に氷を当てられたような悪寒で肩をびくりと震わせた。怯えを押し殺した声色で返事をしたサフィアは恐々と顔を上げた。蒼海色の瞳に自分を映すサフィアに、イステヤは至福に瞳と唇をほころばせた。泣き腫らした瞼と赤い双眸に気付いたうえで。
「いい子にお留守番していたかい?」
慈愛すら滲ませて微笑むイステヤは、幼子にするようにサフィアの頭を撫でた。先程一瞬、冷たく淀んだ怒りの声でサフィアを威圧した者とは思えないほどの優しい態度。サフィアは安堵と戸惑いを押し隠して応じる。
「うん……ぁ……っ」
「サフィア……」
イステヤにそっと抱き寄せられたサフィアは、そのまま彼の両腕に囚われた。イステヤの瞳は我が子を抱く慈母のように温かに細められる。切なさを帯びた甘い声で囁くイステヤに、サフィアの瞳は怯えと切なさに揺らめく。アルドであってアルドではない香りと温もりに抱擁された体は不安に凍えるように小さく震えていた。アルドに寄せる悲愛、イステヤへの怯えと戸惑いに身も心も引き裂かれながらも逆らえないサフィア。愛しの母の面影を宿す無垢で美しいサフィアを支配する至福に、イステヤの胸は甘く仄暗い炎に燃える。
「さて、食事にしようかサフィア。お腹空いているだろう?」
「っ……ええ」
「おいで」
イステヤは胸に抱いたままのサフィアを連れて寝台から離れた。サフィアを高級羽毛ソファに座らせてから食事を用意する。アルドと同じ陽光に澄み輝く長髪は美しく波打つ。アルドと同じたおやかで凛とした後ろ姿を茫然と眺めながら、サフィアは記憶と思考を遡らせた。イステヤに囚われてから一週間。サフィアは陽も差さぬ仄明かりの洞窟内に監禁されていた。出入口は鍵付きの鉄格子で閉ざされ、イステヤに仕える魑魅魑魅魍魎の神獣が監視しているせいで逃げるのはほぼ不可能。アズルイラ全域の制圧と都市国家の陥落を指揮し、神々との戦いに備える外出時を除き、イステヤはサフィアの傍を片時も離れない。
「おまたせサフィア。今日はイチジクとナツメヤシも取って来たよ。果物なら喉も通りやすいだろう」
新鮮な甘い芳香を放つイチジクやナツメヤシ、バナナ、ぶどう、りんごなどの果実を盛った木の皿を手にイステヤは柔らかく微笑む。こうして見ると姿顔は当然、優しい微笑みも穏やかに澄んだ声も、生前のアルドのままだ。陽だまりの若葉さながら爽やかなぬくもりと香りすら同じで、サフィアの胸は複雑な安堵と切ない悲しみに引き裂かれる。
かつてアルドがサフィアに与えてくれた温かさとは似て非なるイステヤの抱擁にも、胸が灼けつくように痛んだ。アルドの場合、愛しの我が子を慈しむように優しくも力強い、心安らかになれる抱擁だった。しかしイステヤの抱擁は、むしろ母に見捨てられる不安に必死に耐えながら縋りつく幼子さながら、どこか寂しげで切ない気持ちに掻き立てる。さらにイステヤにはアルドと異なる無邪気さを孕んだ危うい色も窺える。
「サフィア、今日こそちゃんと食べないと。君は人間だから栄養を取らないといけない」
イステヤから見えるアルドの面影と違いに想いを馳せていたサフィアの意識は引き戻される。目の前にはイステヤの綺麗な指に摘まれた一粒のぶどう。紫水晶さながら澄み輝く果実の芳醇な甘い香り。しかし食欲をそそられるはずのそれをサフィアは素直に受け取れない。
「あまり……食欲はないの」
「ふふふ……その言い訳は聞き飽きたよ、サフィア?」
「っ……本当にお腹空いてないわ」
子どものあからさまな嘘を見透かす親のようにイステヤはくすりと微笑む。しかし緑王石の瞳に仄光る氷の炎、自分を待ち受ける行為を想像するとサフィアは怖かった。隣のイステヤはサフィア軽々と抱き上げると自分の膝上に乗せた。後ろから包み込まれる体勢にされたサフィアは身をよじって抵抗する間もなく。
「な、何を……っ」
「サフィアが自分で食べられないなら僕が手伝ってあげるよ」
「は、離してっ」
「だめ。サフィアに飢え死にされたくないんだ」
これもイステヤに囚われて以降、繰り返したサフィアのささやかな抵抗と敗北、そして屈辱。世界の敵である邪神から施しを受ける抵抗感からサフィアは食事を拒否していた。しかし食欲がない、と言う半分の嘘と半分の抵抗と矜持をイステヤは見透かしている。分かったうえでイステヤはサフィアの食事という生存の機能と本能すら支配する。
「だからいらな、んっ」
「ほら、美味しいだろう?」
可憐な唇の隙間へ丁寧に突っ込まれたぶどうにサフィアは目を見開く。サフィアの舌はぶどうを押し返そうとするが、緩慢に力強く押してくるイステヤの指先が許さない。やむを得ずにサフィアは唇に挟まったぶどうを含み、ゆっくりと咀嚼した。甘くて芳醇なぶどうの弾力と果汁はサフィアの舌とお腹を瑞々しく満たす。
「うんうん、いい子だね。もう一つ」
大人しくなったサフィアに上機嫌なイステヤは二粒目を差し出す。逆らうことを許さないにこやかな微笑みに気圧され、サフィアは憮然と口を開けた。決して美味しいと答えない、と胸に固く誓いながら。これは生命維持のためにやむを得ないこと。恐るべき邪神の手を借りねば食べることすら許されない。サフィアは敵に生かされる屈辱と敗北感をぶどうの酸味と共に噛み締めた。
「今度はりんごも食べてごらん? きっと美味しいから」
「そういえば……あなたは食べなくても大丈夫なの?」
「……僕が?」
イステヤが小さく刻んだりんごを口元へ運んできた時、サフィアは素朴な疑問を不意に零した。しかし、心底不思議そうなイステヤの眼差しに、サフィアも我に返ったように息を呑んだ。イステヤの吸い込まれそうな眼差しと微笑みが生む沈黙を紛らわすためとはいえ、おかしなことを訊いてしまった。
「ふふふ、あははは」
「あの……?」
案の定、イステヤは首を傾げながら破顔一笑した。神なる存在は栄養摂取を必要としない。神々によっては奉納品の麦酒や果実、家畜の肉等を好む者はいるが。イステヤ神はもちろん、神であったアルドも本来は食べなくても平気だ。なのにイステヤに食事の有無を訊いたのは、昔アルドとよく一緒に森の果実や木の実、魚を食べていたからか。それとも。
「ふふ、君らしいなって思って。神の身である僕は……食べなくても平気だよ」
「そ、そうなの……」
イステヤが笑った理由、素朴な疑問の答えを聞き、サフィアは納得した。しかしアルドと同じ顔で「食べなくても平気」だと言われると、胸が締め付けられた。沈鬱な表情で俯くサフィアとは対照的に、イステヤ生温かな眼差しを向けてくる。
「心配してくれたんだね?」
「! ち、違うわ」
「分かっているよ。君は優しいんだ。いつもそうだった……」
不本意な台詞に、サフィアは狼狽気味に否定する。しかしサフィアの心を見透かしたように、イステヤはやはり柔和に微笑む。サフィアだけを映す瞳には、優しさに隠した意地悪な色を仄かして。仇たるイステヤを心配? そんなはずないのに。イステヤが目の前で食事をしたことは一度もないことを密かに気にしていたのは事実。無自覚だったとはいえ、サフィアは内心反省した。しかし、イステヤが最後に何気なく零した「いつもそうだった」、という言葉は心に引っかかった。
「さあサフィア。もっと食べなよ」
ずいっと差し出されたナツメヤシの果実とイステヤの微笑み。実の話、ぶどうを食べた瞬間からサフィアには素直な空腹感が湧いていた。しかしイステヤに見つめられながら、雛鳥のように彼の手で食事させられる屈辱的な行為から一刻も早く解放されたい。
「もうお腹いっばいになれたから……」
「ただでさえ君は痩せているから、もっと食べないと、ね?」
サフィアは抗議したものの、当然聞き入れてもらえるはずもなく。サフィアが観念したように口を開けると、イステヤはやはり嬉しそうに微笑んだ。食事を与える際に見せる優しい微笑みと眼差し、慈しみすら感じさせる言動は、かつてのアルドを思い出させる。サフィアを凌辱した悪しき神と同一人物とは思えない穏やかな態度にサフィアは切ない懐かしさと困惑を抱いた
「んん……!? ふぁ……っ」
「ん……やっぱり甘いね……」
「な……んんっ」
サフィアがナツメヤシを口に含んだと同時に、イステヤの唇はサフィアの唇を塞いだ。突然の口付けに驚きで目を剥くサフィアはイステヤを押し返す。しかしサフィアのか弱い両手の抵抗は、イステヤの大きな手と胸板を微動ださせるはずもなく。サフィアの唇に挟まったナツメヤシをイステヤはサフィアの舌ごと味わう。
「や……っ。んん……ふぅっ」
「ん……っ。ふふふ、甘くて美味しい、ね……? サフィア」
イステヤの蠱惑的な舌、砂糖の塊のように甘いナツメヤシに、サフィアは舌先から根元までを執拗に嬲られる。苦しくて、嫌で、恥ずかしいのに、痺れるほど甘くて、熱い。甘美な息苦しさに思わず涙の浮かぶ双眸を薄く開けば、イステヤと目が合う。イステヤの緑王石の瞳からは先程の優しい色は失せている。代わりに甘く淀んだ炎が再燃している。サフィアの全てを呑み込み、蹂躙せんと仄光る笑み、振り解けない力はイステヤ神のものだ。途端、サフィアの心は残酷な現実とへ引きずり戻される。
「ふぁ……っ、やっ。は、なして……んんっ」
「ん、美味しいよ、サフィア……っ。もっと……味わわせて」
舌先から脳髄が蕩けてしまいそうな甘さと熱に力が抜け、窒息しそうになる。イステヤの胸を叩くサフィアの息苦しさに気付いたイステヤは、甘く淫靡な遊戯を止めた。
「んん……はぁ……っ、やっ……! けほ……っ」
双方の舌先からは互いの透明な唾液が糸を引く。ナツメヤシの甘さと香りに溶けた糸の淫靡な輝きに、サフィアは羞恥で胸がざわついた。唾液でむせたサフィアは苦しげな咳を零す。
「ああ、ごめんよ? サフィア。僕ばかり味わってしまって。苦しかったかい」
「はあ……げほっ。何をするのっ」
肩で息をしながら抗議を零したサフィアに、イステヤは目を細めた。気遣う物言いこそ柔らかいが、イステヤに浮かぶ笑みはどこか愉しそうだ。
「サフィアの好きな食べ物に興味が湧いた。だから君と分け合おうと思ったけど……君が可愛くて、つい……ね」
「っ……だからって……く、口移しでなんて」
「おや、恥ずかしかったのかい? サフィア」
「こんなことされたら誰だって……」
「ふふ、サフィアは可愛いね。顔を赤く染めて……」
先程の淫靡な試食行為に頬を紅潮させるサフィアに、イステヤは揶揄うように甘く囁きかける。明らかにサフィアの反応を愉しんでいるイステヤが憎らしい。ただイステヤは、何故サフィアの好物を知っていたのか。ナツメヤシにぶどう等の果物はどれもサフィアの好物ばかり。やはりサフィアは溜飲の下がらない思いだった。
「サフィア、もう始めようか」
「っ! ぁ……いや……っ。ん……!」
サフィアが逡巡していると、いつのまにかイステヤの顔は目前に迫っていた。優しげな瞳に揺らめく劣情の炎、恍惚ととろける台詞。繰り返された行為の始まりの合図に、サフィアの顔と体は必然的に強張った。本能的な恐怖から後ずさるサフィアだが、イステヤの力強い両手に捕われた。イステヤはサフィアの後頭部を押さえつけると唇を押し当てた。
「んんっ……ふぅ……っ、あ……っ」
「可愛い、サフィア……君は僕のものだ……っ」
深く執拗な口付けにただ翻弄されるサフィアは力を奪われていく。蒼瞳に涙を溜めて震える姿に扇情されたイステヤは、サフィアをそっと押し倒した。全身へのしかかるイステヤの重みとぬくもり、サフィアの頬から首筋をいやらしく撫でる指の感触にぞくりと甘い寒気が湧いた。
「あ……! や、やめて……っ。もう、私っ」
「サフィア……ずっと僕だけを見て……僕だけに感じておくれ」
サフィアは首を横に振りながら両手を突き出して抵抗する。しかしサフィアの脆弱な足掻き、潤んだ蒼海の瞳はイステヤの嗜虐心と劣情をさらに掻き立てる。サフィアの純白の薄い長衣に結ばれた布帯に手をかけられる。はらりと解けた布間から可憐な裸身が晒され、艶やかな真珠肌は薄桃色に染まる。サフィアは恐怖と羞恥に耐えるように顔を背け、瞳を固く閉じる。
「いや……っ、やめてっ。もう、嫌なの……っ。あぅ……っ」
「嘘はよくないよサフィア……?」
アルドのものだった優しげな美貌に妖艶な微笑みが咲く。イステヤの甘く淀んだ瞳はこの一週間で既に見透かしている。怯えを隠せないサフィアは心とは裏腹に、体の方が何を期待しているかを。己の確信を裏付けるように、イステヤの綺麗で細長い指はサフィアの秘所へ前触れなく触れた。
「っ!! やあぁ……っ。触ったら、だめ……っ。やめて、あぁ……っ」
イステヤの指先から付け根にかけて滴るのは透明な蜜。指で軽く擦るだけで、花蜜は甘い芳香を放ちながらとろりと溢れてきた。自分の身体に起こっている異変にサフィアは戸惑い、打ちひしがれるようにか細い悲鳴を零す。
「だめ……? そう言うわりには、サフィアのここは濡れているよ。ほら、こんなにも……」
「! やだぁ、そんな……あぁ……っ!」
イステヤの両手はサフィアの汗ばんだ内腿に触れた。瞬間、生温かく湿った物体はサフィアの濡れた花園を舐め啜った。脚の間に顔を埋め、蠱惑的な舌で秘所を愛撫し始めたイステヤ。優しくも執拗な行為にサフィアの心は恐怖と恥辱に哭き、身体は甘美な悦びに打ち震える。
「あ、ちがう……こんなの……っ。ふぁ……私は、望んで、ない……っ。はあぁ……んっ」
「ふふふ……いいんだよ、サフィア。君が感じているのは僕にとって嬉しいよ……」
「あぁ! いや、だめなの……っ……ん、ふあぁっ」
敏感な花蕾と甘く湿った入り口を舌で丁寧に蹂躙されたサフィアの肉体と脳は、抗い難い快楽へ引きずり落とされた。絶頂に伴う虚脱感と溺れる熱に苦しげな呼吸をするサフィアを、イステヤは満足そうに見下ろす。
「っ……はあ、はあ……」
「今度は前よりも直ぐに達してくれたね、サフィア。気持ちよかった……?」
最初の頃と比べ、感度も絶頂までの早さも増したサフィアに、イステヤは嬉々とした眼差しで問う。まるで母親を喜ばせたい無邪気な幼子のように。しかし、イステヤは分かっているのか否か。イステヤの無邪気で純真な欲望に彩られた一方的な行為と言葉は、サフィアにはどれほど残酷に響いているのかを。
「っ……違う、気持ちよく、なんか……っ」
「……そう」
純真な心と言葉、熱に溺れたはずの蒼瞳の奥に残存する凛とした輝きは、イステヤを頑なに拒絶する。肉体は甘美な本能と快楽に溺れても、決して心を許さないサフィアに、イステヤの瞳に不満の影が過ぎるのも束の間。
「なら今度は……二人でもっと、気持ちよくなろう……?」
「! あ、やああぁぁ……っ!んっ」
「っ……ああ……サフィアっ」
不敵に微笑むイステヤは無邪気に冷酷に囁いた。同時にイステヤの熱く激った楔はサフィアの最奥を貫いた。サフィアが呼吸を整える間もなく、イステヤの丁寧かつ力強い律動は始まる。
「はあ、あ、あっ、あぁ……っ、やあっ、ん、いや……っ、いやぁっ、はあぁ……んんっ」
「っ……サフィア……僕の、サフィア……っ……気持ち、いいよ……っ」
女神さながら慈しみ深い美貌に不相応なイステヤの楔は、サフィアの甘く濡れた内奥を容赦なく抉る。最初はサフィアの悦ぶ場所を探るような丁寧さで優しく侵し、今度はそこを容赦なく的確に追い詰める。
「っ……だめ……んあ……っ。こんなの、ふあぁっ……間違って……やぁ、ん、はあっ」
「は……っ。サフィア……」
イステヤに囚われて以降、顔を合わせれば甘く執拗な責め苦を受け続けるサフィア。いくら心では拒絶しても、すっかり虜にされた身体だけはイステヤを容易に受け入れてしまう。大切な小鳥を寵愛し、決して逃がさない鳥籠のような場所に閉じ込められているサフィアは待ち続けるしかない。終わりという絶望と解放、生きる代償に繰り返される絶望と安堵を。戦線から帰還する度、イステヤは純真ながらも歪んだ慈愛をもってサフィアを愛で、サフィアの望まない交合を強いてくる。
アルドの面影を残す甘い微笑みと眼差し、爽やかなぬくもりに邪悪な心と歪んだ欲望を宿して。大好きな人と同じ姿顔の偽者に蹂躙される悲嘆と恥辱に身も心も引き裂かれ続ける。サフィアの心を辛うじて慰め引き留めるのは、アルドへの変わらない恋心、アルドの慈愛と優しい笑顔の記憶。皮肉にもそれらを思い出せてくれるのはアルドの姿だ。
「あっ、ぁあ、いや、も……だめ……っ、やめてぇ……っ……」
「っ……やめない……一緒に気持ちよくなりたいよ、ね……? サフィア……っ」
「! あ、あっ、いや、だめぇ……っ……! ふぅっ、いやああぁぁぁっ!」
「っ……ぁ……っ、サフィアっ」
イステヤの甘く容赦ない責め苦にサフィアは何度目か分からない快楽の深海へ引き摺りこまれた。ファジュルの皆、アルド……大好きなアルド……助けてっ。たとえ恥辱と悲嘆に堕ちても、愛しい人と故郷へ馳せる想いと矜恃で紡いだ細糸を心に掴んだまま、サフィアは再び意識を失った。
*
生まれた瞬間から私は多くの人に大切にされた。
私は「愛されている」から。
出逢った全ての人は私に優しくしてくれた。皆が私を「愛してくれた」から。
大いなる生命の海の母バハル神の生まれ変わり――無垢なる慈愛の魂を分けた存在である私を、父も母も崇愛した。
城の従者も民草も私を崇拝した。皆が私を愛してくれている。
私は皆に愛されている。
あの日までははそう信じていた。
*
「……ん、私……? ぁ……っ!」.
頭頂部から爪先を巡る倦怠感と鈍痛、体内で疼く熱の余韻と共にサフィアは目を覚ました。双眸を開くと同時に重い上肢を緩慢に起こす。自分が糸一つ纏わぬ姿で純白のシーツを被って眠っていたことに気付いた。確か昨夜もイステヤに。幾度繰り返されても尚、恐怖の薄れない淫靡な仕打ちを思い出して戦慄する。隣にイステヤがいないと分かり、サフィアは安堵した。反面、独りになると胸を焦がされる寂しさと悲嘆、喪失感にサフィアの涙は枯れることを知らない。今も堰を切ったように流れ落ちては、シーツへ悲しみの痕を生んでいく。
「(きっと懐かしい夢を見ていたからだわ……)」
夢の内容は起きた瞬間に忘れてしまった。ただ懐かしくて寂しくて、けれど穏やかな感覚から、昔の夢を見たのだと想像する。今となっては懐かしくて遠いファジュル、そこに眠る優しい思い出、アルドと過ごした宝物の時間。恋しさから燻った寂寥感は、懐かしくて最も寂しく、最も幸せな記憶を蘇らせた。
『ねぇねぇ、ハニファ。お父様とお母様、今夜はどうしても帰ってこないの?』
記憶の中で幼きサフィアは侍女のハニファへ無邪気に語りかける。愛らしくハニファを見上げるサフィアの蒼眼は切実な色に揺らめく。
『サフィア様。何度も申した通り、王と妃は年に一度の大切な公務のために明後日頃まで戻られぬ予定です』
一方膝を折ってサフィアと目線を合わせながらハニファは同じ答えを零した。昨日から覆ることのなかった答えにサフィアは落胆する。
『そう、なんだ……ねぇ、ならハニファと城の皆で……』
『サフィア様。王と妃も不在の今、手薄となっているファジュル内外の監視と護衛の現場から一歩たりとも離れるわけにはいかないのです。残念ですが、今夜は私も神殿で祭務のためサフィアの傍にいられません』
幼きサフィアの名案は最後まで言葉になる前に一蹴された。ハニファの台詞に、幼い蒼海の瞳に悲しみが波紋する。しかし、サフィアは柔らかに微笑んで見せた。
『そう……なら、いいの! お父様とお母様、そしてハニファも兵隊の皆さんも、ファジュルを守るために一生懸命お仕事しているのは私も嬉しいから。ごめんなさいハニファ。忙しいのに我儘を言ってしまって』
素直で心優しいサフィアが零した言葉に嘘はない。ただし天真爛漫な笑顔に隠れた悲しみの色、小さく震える手と唇から無理をしているのは明白だ。
『いえ、私こそ毎年申し訳ありません。私どもも、サフィア様の生まれた最も尊き今日を盛大に祝うことができずに惜しいです』
幼き王女の魅力的な提案を実行してやれる立場にないハニファも心苦しそうだ。さすがのサフィアもハニファを困らせることは憚られ、ようやく口を噤んだ。サフィアの三歳以降、毎年そうだった。サフィアの誕生日と年に一度の重要な国家間交渉と会合の遠征の日程は毎年重なるのだ。サフィアの両親が三日間程留守にしている間、城の従者も巫女長のハニファも公務に忙殺される。年内で最も孤独で寂しい時を城で過ごす誕生日はサフィアにとって苦手な日となった。反面、両親の不在を寂しく思うのは変わらないが、彼のおかげで悲しくはなくなった。
『……こんばんは、サフィア』
真珠色の月光を浴びる白煉瓦の小窓から一羽の白い鳩が入った。淡い光を放つ鳩から純白の羽と花が舞う。
『! アルドっ。来てくれたのね……』
月明かりの下で柔らかく微笑む女神さながら美しい親友の訪れに、サフィアに笑顔の花が咲いた。心底嬉しそうに駆け寄るサフィアをアルドは両腕に優しく抱き留めた。
『サフィアが生まれた大切な日だからね。忘れるはずがないよ』
『アルド……っ』
今年も約束を守ってくれたアルドにサフィアは喜びで胸をいっぱいにして抱きつく。毎年アルドはサフィアの誕生日の夜に必ず逢いに来てくれる。特別な夜は白鳩や蝶などの小さなものに姿を変えてサフィアの自室へ密かに訪れる。サフィアの誕生日を祝い、夜が明けるまで傍にいてくれる。アルドにとって特別で得難い親友が生まれた祝福の日が孤独と寂しさに塗り潰されないために。涙に濡れそうなサフィアに笑顔を咲かせたくて。
『サフィア、十歳の誕生日おめでとう。これは僕からの贈り物』
『わぁ……! 綺麗なお花……っ。いつもありがとう! アルド。すっごく嬉しいっ』
いつもアルドは誕生日に花を贈ってくれた。淡い紫丁香花や乳白色の木蓮、真っ青な瑠璃唐草まで、どれもサフィアのように可憐で美しい花ばかり。しかし今年の花はいつもと少し違っていた。
『アルド……? このお花、冠みたいに綺麗な輪っかに編まれているわ』
『そうだよ。今年の花は特別だ』
サフィアの手のひらで可憐に煌めくのは、「霞草の花冠」。白雪のような花びらをまばらに咲かせた爽やかな若草色の輪っかに、サフィアは瞳を輝かせた。無言で見惚れるサフィアの頭へアルドは花冠をそっと飾ってくれた。
『うん、君によく似合っている……綺麗だよサフィア』
『っ! あ、ありがとう……アルド』
お世辞ではない心からの褒め言葉を爽やかな笑顔で零すアルドに、サフィアは胸の芯が熱くなった。頭上で可憐に輝く霞草の花冠に込められた美しい力と想いに、サフィアの胸はさらなる幸福で温められた。
『この花は僕の力を宿して咲いた花。だから枯れないまま、サフィアの傍でずっと咲くだろう。僕たちの変わらぬ絆と同じように……』
『アルド……』
以前、命を終えた花を川へ葬った際、「ずっと咲いてくれる花があったらいいのにね」、と呟いたサフィアの言葉をアルドは覚えていてくれた。アルドは枯れることのない霞草の花冠を贈り、サフィアの幼く切実な夢物語を叶えてくれた。サフィアとの永遠の絆と友情を誓うと共に。
『ありがとうアルド……! 生まれてから一番嬉しい贈り物だわ。私、ずっと大切にするね。これをあなただと思って』
『サフィア……』
大好きなアルドに綺麗だと褒められたのも、肌身離さないでいられる贈り物も初めてだった。ずっとアルドと一緒にいたい、というサフィアの望みを知ったアルドもまた同じ望みを形にして贈ってくれたのが嬉しかった。今年は最高の誕生日だった。
毎年、誕生日の翌朝に必ず枕元へ置かれた贈り物は、アルドと出逢う以前から見られた。サフィアの両親が赴任先から贈ってくれた、とハニファは教えてくれた。今年の枕元の贈り物も最高だった。朝陽を浴びて煌めくのは、サフィアの胸元で揺れる「白詰草の首飾り」。純白の花を模した錫に、淡い黄金の細長い鎖が繋がっている。その精巧な美しさは、花を愛する幼きサフィアを魅力した。両親からの十個目の贈り物もサフィアは心底気に入った。アルドの花冠、両親の花の首飾りをサフィアはずっと肌身離さず大切にした。サフィアにとって十歳の誕生日は、かけがえのない思い出として今も記憶に刻まれている。
「(そうだった……ひとりぼっちで寂しいはずの誕生日も、私が不安な時も、アルドがずっとそばにいてくれたから寂しくなかった。たとえ怖いことや嫌なことがあっても、アルドのおかげでいつも笑顔でいられた……)」
しかし、胸元でサフィアを慰めるように煌めく白詰草を贈ってくれた愛する両親はもういない。サフィアに幸せも自由も、恋する気持ちも教えてくれたアルドは、もう救いに来てくれない。二人の願いを籠めた霞草の花冠も、数年前に枯れてしまった。現在では陽の差さぬ牢屋で時間と外界から隔離されているサフィアは、アズルイラとファジュルの現状と人間の生存の有無を知る由もない。
「(もしも、このままイステヤから逃げられなかったら、私も……いいえ、ファジュルも世界すらきっと……っ)」
世界と人間を滅ぼし、神々に復讐を目論むイステヤ軍に、ファジュルを含むアズルイラの人間、神々は立ち向かえると信じたい。しかしイステヤ神が植え付けた恐怖と恥辱、不透明な未来への不安、アルドへの悲愛ばかりがサフィアの心を締め付ける。このままでは体だけでなくアルドと故郷ファジュルを想う心すら踏みにじられてしまう。
「(イステヤは何故、私を……)」
イステヤは母と妻たるバハル神に妄執的な愛情を燃やしている。故に母神の生まれ変わりであるサフィアに執着し、深海さながら深く淀んだ愛で支配したがる。それはサフィアに母の幻影を求めているに過ぎない。機が熟せば、イステヤはサフィアを母神バハル復活の生贄として捧げるだろう。イステヤが亡きアルドの神体を依代にこの世へ復活したように。己に迫る悲しく恐ろしい未来を想像し、サフィアはますます胸が苦しくなった。
「っ……私、消えたくない……死にたくない……っ。ファジュルも……この世界も滅んだら……ぜんぶ、なくなっちゃう……! アルド……っ」
アルドとの優しい記憶も、優しい思い出の眠るあの森も、あなたに恋する私自身ですら、あの恐ろしい復讐に燃える真紅の眼差し、原初の海にのみこまれて、消えてしまう。
「っ……助けてアルド……逢いたい……もう一度だけでいいから、本当のあなたに、逢いたい……っ!」
決して届かない救いの声、永久に叶わない悲願をサフィアは涙と共に零した――。
「……誰……?」
洞窟の細道に吹き込む風に混じって何かがはためく音。耳を澄ませば微かに聞こえる音源をサフィアは視線で辿る。すると鉄格子の向こう側奥ではためく淡い茶褐色を捉えた。まさか。段々と近づいてくるのは一羽の山鳩。一瞬、サフィアの呼吸と心臓へ電撃が走った。神獣とは明らかに違う、ごく普通の山鳩の姿にサフィアの胸は淡い期待に高鳴った。
「これを、私に?」
鉄格子の隙間を潜り抜けてサフィアへ駆け寄った山鳩。茶褐色の岩岳と洞窟と類似色の体には、一枚の手紙と一つの薬包紙が巻かれていた。書字の媒体は粘土板が未だ主流だ。しかし木材から製成された紙は、外交が盛んな都市の王族しか持ち得ぬ希少な新時代の媒体。使い鳩の主はサフィアにとって最も信頼できる存在だと直ぐに分かった。サフィアは山鳩から外した手紙を慌てて開いた。手紙に刻まれた馴染みのある流麗な文字と送り主にサフィアは安堵で唇をほころばせた。
「(この手紙に書いてある作戦を実行すれば、イステヤから逃げられる……ファジュルに帰れるの……?)」
絶望的状況に差し込んだ不測の突破口、救いの手にサフィアは胸に希望を灯す。反面、救出作戦の内容とその成功の鍵は自分が握っていると知ったサフィアは緊張から汗を流す。動悸も収まらないサフィアは、見張りに気取られていないか、と思わず視線を配る。薬包紙を握りしめる手のひらにも力と汗が滲む。正直な話、自分はあのイステヤを上手く出し抜けるのか、失敗した場合の危険の高さへの不安が圧倒的に強い。
けれどイステヤの支配から逃れられる唯一の奇跡的な好機と救いの手を掴まずにはいられない。このまま死と終わりまでの時間を無為に待つだけなのはもう嫌だ。本当は生きてファジュルへ帰りたい。アルドとのかけがえのない思い出の眠る美しきアクダルの森も、サフィアの愛する誉れ高きファジュルと人々も守りたい。サフィアは海のように深く澄んだ願いを胸に決意を固めた。
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