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 薔薇園を抜けると、かつてのジョサイア・コンドルの作品を彷彿とさせる、荘厳で巨大な洋館がそびえていた。   個人が住むには広すぎるその洋館には、このデザインには不釣り合いとも言える大時計が中央に掲げられていて、細やかな装飾がいたるところに施されている。  その白い壁は夏の空と美麗なコントラストを作っていたが、どこか怪しげな雰囲気を携えている。 「こちらが出雲路様の邸宅、白鳳館(はくほうかん)です」  小野田が右手で解錠しその重厚な扉を開けると、吹き抜けとなった玄関ホールが広がっていた。  外の暑さを少しも感じさせないその空間は年季の入った外観とは裏腹に隅々まで空調が行き渡っている。  ホールの隅には観音開きの棚の上にこの空間には不釣り合いとも言えるグランドピアノ型のトイピアノが4台、やや離れて並べられていた。  いくつもの長机の上には、色鮮やかなフィンガーフードとドリンクが用意されていた。 「ようこそお越しくださいました。私、出雲路様の使用人、多田熊(ただくま)でございます。皆様のご滞在中身の回りのお世話を担当させていただきます。よろしくお願いいたします」  60は過ぎているだろうその初老の男は、身なりから所作まで一切の無駄がなく、それでいてすぐに親近感を抱かせる態度だった。 「船旅でお疲れでしょうから、ささやかながらウェルカムパーティーのご用意をさせていただきました。荷物は小野田が皆様のお部屋にお持ちいたします。後ほど当主よりご挨拶がございますので、どうぞおくつろぎください」 「やったー!お昼食べてないからお腹ペコペコだったんですよー!いっただっきまーす!」  寧衣良は微塵の遠慮もなくドリンクを手に取り口につける。 「うげ、これお酒だ…はい江流久さんどーぞ」  飲みかけのグラスを江流久に差し出すと、今度は慎重に匂いを嗅ぎながらグレープフルーツジュースを探し当てた。  江流久は手渡されたスパークリングワインを1口飲み込む。  疲れた体に染み渡る芳醇な白葡萄の香りと、きめ細やかな泡がようやく喉の渇きを潤してくれた。  いたるところに置かれたスピーカーから聞こえるピアノの音が緩やかに流れる中、客人たちはそれぞれドリンクを手に取りながら談笑している。 「ねぇ江流久さん、鏡さんて本っ当に誰とも喋らないんですね。私、もう一度話しかけてこようかな」  鏡 樹里亜は壁に寄りかかりながらスパークリングワインのグラスを傾けて眺めている。 「……やめとけ、色々あるんだろ」  江流久はそう言うと飲みかけのスパークリングワインを飲み干した。  鼻に抜けるアルコールがピアノの音と混じり合って心地良い。  昼から飲む高級なワインにも関わらず、こうした場ではつい周りを観察してしまうのが探偵の悲しい性だ。  気が抜けた瞬間にこそ、人間性がこぼれやすい。  それはもちろん助手である寧衣良も心得ており、ウェルカムフードに夢中になりながらも周囲に目を配るのを忘れていない。  忘れていないはずだが、寧衣良は隅に置かれたトイピアノに興味津々な様子で、この場の雰囲気を破壊するつもりなのか「猫踏んじゃった」をワンフレーズ弾いて得意げに笑って見せた。  多田熊は何やらモニターとスピーカーの準備をしており、小野田は先程全員の荷物をカートに乗せてエレベーターで2階へと向かった。  ジョンソンは嵯峨野と大げさなボディーランゲージを加えながら話し込んでいる。  森坂夫妻は夫婦で一緒にいるが、先ほどの一件で景都は悠椰のことを恐れているのか1歩後ろで下を向いていた。  桐澤は持ち前の人当たりの良さで足立原、千々岩と談笑している。  江流久はあたりを改めて見回すが、先刻からどこを見ても牧乃瀬が見当たらない。  トイレにでも行っているのだろうと思っていると、そうこうしている内に小野田が二階に続く正面の階段から降りてきて、その少し後に牧乃瀬が続いてきた。  気のせいか小野田は困惑した表情を浮かべているように見える。  階段を下りきった小野田が多田熊に目配せをすると、多田熊はよく通る低い声で挨拶をした。 「皆様大変長らくお待たせいたしました。これより我が当主よりご挨拶をさせていただきます」  多田熊の声が止むや否や、突然目の前の大型モニターにどこかで見た赤い色の、まるで鉤爪のような爪をつけた手が映し出され音楽が止んだ。 「皆様お初にお目にかかります。(わたくし)が白鳳館当主、ヴァルトシュタイン・レイチェル・モーダンでございます」
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