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「皆さんもお困りのことがあればぜひ相談されたらいかがですかな?」
握手を終えた牧乃瀬がニタニタと笑いながら椅子に乱暴に座り込むと、デッキの上の空気が更に張り詰めた。
忌々しく牧乃瀬を睨むドレスを着た長身の美女を見て寧衣良が駆け寄る。
「あの……もしかしてピアニストの千々岩 詠梨さんじゃないですか?わー!生で見ると綺麗―!」
スレンダーという言葉がぴったり合うその美女は茶色い髪をアップでまとめて、演奏会にでも出るような露出の多い緑色のドレスに白のレースストールを羽織っている。
手の爪にはドレスと同じ緑のネイルが光っていた。
「……あら、私のこと知ってるの?ありがとう」
ピアニストというのはどうしてこう露出の高いドレスを着るのか、寧衣良は後頭部に感じる江流久の視線から目の前の豊満な胸元を守る。
「3年前に出したショパンのアルバム!音楽の授業で聴きました。またアルバム出さないんですか?」
一瞬苦々しい顔をしながらも、千々岩はすぐに笑顔を取り繕った。
「最近はレコーディングよりもコンサートを重視してるのよ。私はライブ感が好きなの」
江流久が千々岩と話す寧衣良を見つめていると、突然肩に手が置かれ背後から声が聞こえた。
「無駄ですよ。千々岩 詠梨って、金遣い荒くてプライドも高くて有名ですから」
振り返ると、黒縁のボストンメガネをかけた男が笑っている。
肩に置かれた手の指は男にしては細く長い。
「初めまして。僕は桐澤 凛太郎。ピアノの調律師をしています。江流久さんはピアノを?」
ポロシャツにハーフパンツという、職業に似つかわしくないラフな格好の男は人当たりの良い警戒心を抱かせない笑顔をしていた。
「いえ、俺は音楽はからっきしで。あいつは小さい頃から習っていたみたいですけど」
指の先の寧衣良は早くも別の人間に声をかけている。
それを横目に、江流久はデッキの手すりに寄りかかる。
「そうですか、……それよりさっきの話、本当ですか?連続殺人を解決したって?」
桐澤はメガネの奥で好奇心が抑えられない眼差しを向ける。
「…本当です。ただ、さっきも言いましたけど内緒でお願いしますよ」
「いやー、すごいな。本当に殺人事件を解決する探偵がいるんですね。ドラマや小説の中だけかと思ってましたよ!いいなぁ」
江流久の隣、デッキの手すりに背をもたれて桐澤は笑う。
「……いいもんじゃないですよ。殺人事件なんてね」
江流久は手すりに腕を乗せて、遥か遠くの空を見つめるように呟いた。
憂いを帯びた視線の先には、船着場で見たときよりもさらに雨雲が大きくなってきていた。
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