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 一同は一言も言葉を発さなかった。  発せなかったと言っても良い。  誰もがモニターには暗号が映し出され、階段の上からは出雲路が下りてくるのだろうと予想していたのだ。  スピーカー越しに聞こえる声はボイスチェンジャーで加工されており不気味に玄関ホールに響いた。 「おい!これはどういうことだ!お前ら知ってたのか!?説明しろ!」  森坂悠椰が声を荒げて叫んだ後、近くにいた弁護士の足立原の胸元を掴む。 「そうよ!当主は出雲路さんのはずでしょ!」  千々岩も一緒になり足立原に詰め寄る。 「そ、そう言われましても、私も今初めて聞いたことで…。た、多田熊さん!これは一体どういうことですか!?」  足立原は胸元を掴まれたまま苦しそうに多田熊を見つめる。 「そうね、長旅の終着点がこれじゃあ納得できないわ。説明して下さる?多田熊さん」    嵯峨野はスパークリングワインのグラスを置き、腕を組んで冷たく多田熊を見据えた。  鏡は呆然としながらも、その立ち位置を動かずじっとしている。 「その点につきましても、当主様よりお話がございますのでどうか続きをお聞きください」  多田熊は冷静にゆっくりと右腕を動かし、いつの間にか一時停止していたモニターを改めて再生すると先ほどの声が再び喋り始めた。  まるで地の割れ目の地獄の底から漏れ出るようなその不快な声は聞き取りにくいものの、だれもがその声に耳を傾けていて、それは江流久と寧衣良も例外ではなかった。 「出雲路は3日前、持病の悪化により亡くなりました。私は前当主、出雲路啓嗣より出雲路家顧問洋琴奏者を仰せつかっており、度々演奏を頼まれてはこの島で出雲路のためだけに演奏をしてまいりました。そして出雲路が死ぬ前日に演奏に招かれた折、私は出雲路の出した暗号を解き、その場で出雲路の全財産を引き継ぐこととなりました」  息をするのも苦しいくらいに、ホールに不穏な空気が満ちていく。  唾を飲み込む音さえ響きそうな静けさだった。 誰一人としてモニターから目を離さない中、江流久だけは一同の様子を伺っている。   「ただ、私は出雲路の財産などには興味がございません。そこで、皆様方におかれましてはご多忙の中、貴重なお時間を割いてご都合を付けてくださっているようですので、出雲路の暗号はそのままに、暗号を解かれた方に改めまして私から財産をお譲りしたい次第でございます」  ホールがざわめき立つ。  ここにいるほぼ全員の口がほころび笑みがこぼれるのを江流久は見逃さなかった。 「また、出雲路の話にありました“歴史的に貴重な楽譜”というのは、ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作、“ピアノソナタ第33番 嬰ハ短調 「慟哭」“でございます」  牧乃瀬がテーブルを叩き、話を遮る。  テーブルの上で食器が揺れ音を立てると、細いワイングラスが倒れて血のように赤いワインがこぼれた。 「馬鹿な!!ベートヴェンのピアノソナタは32曲しかないはずだ!33番なんて聞いたことがない!」 「そうだよ。ヴィリー・ヘスがあれだけ心血を注いで全ての楽譜は発見されたはずだ。もし本当なら歴史的に貴重どころじゃない、世紀の大発見だ。出雲路の財産なんて霞んでしまう」  桐澤が静かにそう呟くのを聞き遂げてから、多田熊は再び再生ボタンを押す。 「音楽に造詣の深い皆様方のことですから、にわかには信じられないことと存じます。そこで、僭越ながら私が演奏させていただきますので、どうか私の演奏をお聞きになり、この楽譜が本物かどうかご自身で判断を下していただけましたら幸いでございます」  そしてヴァルトシュタイン・レイチェル・モーダンと名乗る声の主は、自分の動画がそうであるように、白黒のピアノの上に赤いマニキュアをした手を乗せた。
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