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目の前の販促用の小さな画面の中で血のように赤いマニキュアをした指が鍵盤の上で踊っている。
天井のスピーカーからはまるでアポロンの奏でる竪琴のように美しいピアノの音が流れている。
“ベートーヴェン ピアノソナタ第26番 変ホ長調「告別」 第3楽章”
白と黒のモノトーンの世界に赤い爪が彩りを加え、煌びやかなピアノの音が響く中、画面は暗転していき金色の文字が流れる。
言わずと知れた老舗化粧品メーカー、幻影堂の夏の新色マニキュアのCMだ。
そして再びCMの最初から動画が流れ音楽が奏でられる。
羽田空港内のドラッグストア。
色取り取りの沢山のマニキュアが並ぶコーナーで恋澄 寧衣良はうっとりと画面を眺めていた。
発色の美しさもさることながら、テレビで頻繁に流れるこのCMの音楽の効果も手伝って、このマニキュアは発売と同時に各所で品切れとなり入手困難となっていた。
それがたまたま立ち寄ったこのドラッグストアに置いてあったので、寧衣良はつい手にとって様々に角度を変えて眺める。
赤色のマニキュアをつけたことなど人生で一度もなかったが、最後の1本となったそのマニキュアは今を逃したら2度と手に入らない気がしたのだ。
隣で退屈そうにあくびをする江流久 英雄に声をかける。
「ねぇ江流久さん!これ、買っても良いですか?」
江流久は涙を目尻に浮かべながら一瞥すると全く興味がなさそうに言い放った。
「別にお前がバイト代を何に使おうと関係ないしな。好きにしろよ」
「……経費で落ちませんかね?」
「落ちるわけねーだろ」
この男には繊細な乙女心が理解できないのかと寧衣良は少し腹が立ったが、きっとこのマニキュアを塗った自分を見れば思い直すに違いないと思いレジへと向かった。
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