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 高知龍馬空港に到着するころには、寧衣良は口を開いて眠りについていた。その薄いピンク色の唇からは少量の涎が今にも垂れそうになっている。 「おい!起きろ!着いたぞ!」  江流久は寧衣良に声を掛けるが、ノイズキャンセリングの性能がいいのか寧衣良は微動だにしない。  イヤホンを耳から抜きとり改めて声をかけるとようやく寧衣良は重い目を開き、何とか女子の面目を保つべく垂れることのなかった涎を手で拭き取った。 「あ!江流久さん!あれ!見て見て!!」  受け取ったスーツケースを江流久に向けて転がし、寧衣良は目の前の人影に向かって駆け寄っていく。 「エルク探偵事務所のー、夜明けぜよーー!!」  満面の笑みで坂本龍馬の等身大人形と並びポーズをとる。 「坂本龍馬が何した人か知ってんの?」  今日は朝から散々振り回されているのでこれしきのことはもう気にならない。  そもそも今回の旅だって寧衣良が勝手に申し込んだのだ。  久しぶりの夏休みをとって、家にこもってエアコンの効いた部屋でゆっくり読書でもしようと思っていたのに、よりによって夏に南下しなくても。 「幕末でなんかすごいことした人ですよね!それくらいテレビで見て知ってます!」 「なんかすごいことってお前…。じゃあ坂本龍馬は何藩出身?」 「……歴史の授業は私興味ありませんので!」 「……土佐だよ、土佐犬の土佐。それくらい一般常識だから探偵になりたいなら覚えとけよ」  江流久は半ば哀れみの表情を浮かべるが、旅の高揚感真っ盛りの寧衣良には少しも響いていない様子で、早くも背伸びをして坂本龍馬像の肩に手を掛けて自撮りをしている。  高知龍馬空港のすぐそばでレンタカーを借りて、二人で港を目指す。  当然運転手は江流久で、寧衣良はスマートフォンを早速カーステレオに接続して、何やら動画サイトを検索していた。 「これこれ!江流久さん!さっきのCMの覆面ピアニスト!」 「おい、運転中にスマホ見せられても見れるわけな………」  江流久は言葉を失った。  たかだか10cmもない小さな画面の中で、ピアノの鍵盤が作るモノクロームの舞台の上を、つい見惚れてしまいそうなほど美しい指先が自由に駆け巡っている。  男とも女とも似つかないそのしなやかな指先には、白黒の世界の中で唯一の彩りを加える赤いマニキュアが塗られた爪が輝いていた。  “ベートーヴェン ピアノソナタ第14番 嬰ハ短調「月光」 第3楽章”  古いレンタカーのカーステレオからうねりながら流れるピアノの音はまるで夜空に輝く月と星のようにこの世のものとは思えないほど煌びやかな音をたてている。  まるで時間が止まったかのように、江流久は食い入るように画面を見つめる。 「!!…ちょっ江流久さん!信号!赤!!」  赤信号のまま交差点に進入し、横断歩道を少し過ぎたところで急ブレーキを踏み込むと2人の体がフロントガラスの方へ投げ出されそうになり、シートベルトのありがたみが骨身に染みる。  心臓が弾け飛びそうに鼓動を打つ中、寧衣良が江流久に苦言を呈す。 「……もーー!何考えてるんですか!危なく死ぬとこでしたよ!」 「いや、お前が悪いだろ」 「絶っ対!江流久さんが悪い!脇見運転禁止!」  いつの間にか寧衣良のスマートフォンの画面の中では白黒の鍵盤の上にもはや赤い指先はなく、カーステレオから流れるピアノの音は曲のクライマックスを迎えたのか、後には余韻だけが響いていた。
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