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夏の朝
まさか純一と一夜をともにすることになろうとは……。ひと晩中、話をしていただけのことだけど。
キスもペッティングもなし。
なにもなし。
……いや、あったのは、純一が犯人だという事実だけである。
「……自白したの?」
「いや」
と、純一は言う。
歯の隙間から洩れる空気に混じったそのフレーズは、つきあっていた頃から耳に馴染んでいる。彼の前歯は……高校の頃に矯正に失敗し隙間が多いのだ。
「どんな容疑?」
「…………」
「ねえ……話したいの? したくないの?」
そう言ったとき、私は“したくないの?”と、よく純一をいじめていた時代があったことを思い出してしまった。そのフレーズを吐く時は、私はすっぽんぽんだったはずだ、たぶん。
「誰にも言わないと約束してほしい」
純一は真顔のままだ。
「落書きがあったろ?」
あ、と私は思い出した。町役場の緒方部長も言っていたし、タウン誌の新人、山村女史も車の中で喋っていたはずである。
「落書き……って、まさか……」
目の前の純一と落書きの犯人像は、私のなかではまるでかけ離れていた。
「その、まさかだよ」
突然、純一が柄にもなく冗談交じりに微笑んだのをみて、
(あ、ウソじゃない)
と、直観した。
かれには、昔からそんなところがあった……。
「ええと……待って待って待ってね……」
「それ、懐かしい」
「え?」
「待って、を三回続けること……」
「でもいま、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ? 聴きたかったのは、あなたが犯人グループの仲間? ってことだけど」
「あ、グループって? おれ、言ってないけど……どうして、グループって知ってる?」
「え? どういうこと? 待って待って待ってね……」
「あ、またそれ」
「整理すると、落書き犯人はグループで、あなたはその一人ってこと?」
「だから、さっきから言ってる」
なんとも容量の得ないやりとりだったけれど、私は私でそれなりに楽しかった。純一が犯人の一人だとわかるまでは……。
「……警察はなんて?」
「なんにも……ある人のことを尋ねられた、だけ。仕掛け人のこと。警察は、タウン誌の……」
「え? まさか……副編の……田代ちゃん?」
ここはギョーカイに倣って、ちゃん付けで呼ぶことにした。スクープをものにしようと忍者のようにあちこちに姿をみせる田代なら、
(仕掛け人……アリかも)
と思えてきた。
落書き……なんて、軽犯罪法か器物損壊罪ぐらいだろうし、たとえ逮捕されたとしても、本人とその周辺がばつの悪い思いをするだけなのだろう。
「副編集長の人ではないよ。新人の女の子で……」
「新人! 女の子!」
そう聴けば、あの山村女史しかいないだろう。しかも、駐在所の山さんの娘さんだ……。
一体、どういうことだろう。名刺はもらっているので、明日にでも山村女史と連絡をとってみようとおもった。
それにしても、この小さな里村にはいっぱい秘密があるようだ。
落書き行為の根底には、話題作りといった戦術があるように思えてならないのだ。村興し、の。そういう複雑にからみあった糸を解していく作業は、単調な日常になにがしかの刺激をあたえてくれるはずだ。
○
刺激……といえば、こそ泥のように箪笥や押入れや机の引き出しを捜し回ったらしい父が喜々としてして私の目の前に持ってきたのは、賞状筒だった。
賞状などを丸めて納める、小中高の卒業証書を入れておく、それだ。
「な、なんなの? それ?」
「まあ、読んでみぃ」
おそらく一度父は確かめた上で、また、丸めて筒の中に納めたのだろう。それは人間の習性かもしれない。賞状は見ても、すぐ丸めて筒の中にもどす……、そしてこの賞状筒は、おそらく横山文具店で買ったものにちがいなかった。
私は蓋をとって中の巻紙を取り出した。
表彰状、とあった。そのあとに、船の名前と、
〈操舵手 呉羽幸雄〉
の名が記されてあった。
「え? お父さん、表彰されたの? 操舵手? 航海士じゃなかったの?」
「だれも最初は操舵手として、覚えていくんだがや。まだ、新米の頃だがにぃ・・・」
人命救助の四文字が見えた。
……当時、当直中であった貴殿は沈着冷静に事を処理し、人命救助に当っては勇猛果敢、身の危険も顧みず……
……異境の地に日本人船員の優秀さを顕示した栄誉を慶ぶと共に、貴殿を全船員の亀鑑として、ここに表彰する……
句読点もなく、私には読めない熟語もあったが、どうやら“溺死の危機に瀕した”者を、父が海に飛び込んで救助したらしいことだけは、すぐに判った。
「ひゃあ、お父さん、溺れていた人を、助けたの?」
「ま、古い話や……言わんなんだがにぃ? あげだがね、陸に上がった頃、おまえ、わしに、懐かんで、そげな自慢してる暇なんぞ、なかったし、の」
「そ、そう? ええと? でも、これと、キャサリンと、どんな関係が……」
「だから思い出した……身に覚えがあるだのないだの、おまえに責め立てられて……そのとき、助けたのは妊婦さんで……」
「・・・・・!」
「港に碇泊したとき、写真を撮らせてほしいと、家族のもんがやってきて……」
……せっかくなので、船室に保管していてほとんど着ることのない制服を着て、撮影に応じたらしい。そして、持っていた乗船前の写真を渡し、自分の名と呉羽洋菓子店の店名と住所をメモに書いたらしかった。
「……救助した婦人の子どもなら、いま、二十五歳前後じゃないか……思い当たることは、それぐらいしか……」
父がこれほど饒舌になったのは久しぶりのことで、私は全身から力が抜けていくのを感じた。
「ま、わからん。日本にやってきた当人とじかに会って話をせんことには、なんにも、わからんだがぁ?」
確かにそのとおりだ。けれども、ひとまず、私の中ではほぼ得心のいく推理の筋立てというものが出来上がっていた。ほぼ、間違いないのではないかと、嬉しさのあまり、喉の渇きで声が出ないほどだった。
○
朝の食卓が賑わうのは久しぶりのことだった。父の隣には一郎くんがなんの戸惑いも違和感もなく当たり前のように座っている。
その対面には、純一がおとなしく黙ったまま、居る。そう、居る、のだ。
……もし、私が、あの頃、純一とあのまま結婚していたなら、この目の前の光景こそは、親子三代の、微笑ましい、それこそ絵に描いたような家族の朝のはじまりであったろう。
朝、純一の姿をみた父は何も言わなかった。それどころか、心なしか気分が昂揚しているようにも見えた。キャサリンと会うのを楽しみにしていたこともあるのだろうが、わずか数日の間に立て続けに起こった出来事のせいか、父は考えすぎないようにしているらしい。どうやら、考えることより、感じることの大切さに気づいたようだ。
だから、純一の逮捕もどき事件のことには父のほうから一切触れてこなかった。
ありがたいような、少しは触れてほしいような……そんな複雑な感情に私はとらわれていた。
それに、これからさらに第二、第三の波が襲ってきそうな予感めいたものすら私は感じていたのだ。それだけに、束の間の平穏というのは、ある意味ありがたいことにはちがいない……。
この疑似家族のような朝の疑似憩いのなかで、もっぱら父が話題にしたのは、母の選挙のことだった。
「……もう一週間、切ったげな……あいつ、まっこと、出ンなさるんかのぅ」
嘆くように父がつぶやくと、珍しく純一が、
「出馬すれば……まず、当選間違い無しですよ。本命は、次の町長選という噂ですけど」
と、受けた。
「町長選?」
「ええ、今回は、現町長一人だけの立候補だから、無投票当選になるみたいです。で、問題は、任期途中で町長が辞職したら、来年か二年後には町長選が……」
「え? それにも出るのか、あいつが?」
父は目を見張って私をみた。母の話題一色になってきたので、私はそっと離れようとしたのに、目ざとく父が、
「どう言ってたがや?」
と、訊いてきた。
「おまえ、あいつの事務所によく顔出してンやろ?」
「え?」と、私は言った。
そういえば、昨夜から、何度『え』を連発してきたのだろう。
「……本人はまだ決めてないみたい」
ありのままに私は答えた。
「お、そうなンか?」
「うん……でも、事務所はすっかり、選挙事務所になってた……」
「お、じゃ、出ンさるンか?」
「ボランティアの人が、勝手に手伝ってるみたいだったけど」
「勝手に、いうても……」
「勝手に手伝うから、ボランティアなんでしょ!」
早く会話を終わらせたいとおもい、かなりきつい口調で言ってしまっていた。不思議そうに私を見やった父は、なにか言いかけて、そのまま口をつむった。純一は聴かないふりをして、一郎くんを急かし着替えるように言っていた。
気まずい空気が落ちてきかけたとき、電話が鳴った。店の固定電話のほうだ。
父が立ち上がって電話を取りにいった。
「選挙のこと、三人で話し合ったほうがいいんじゃないか」
そんなことを純一が言ってきた。
父と母と娘の私……三人で話し合っておかなければならないことは、山ほどある。キャサリンのことも。そして、純一の妻、瑠美さんがいのちがけで仕掛けてみせた私たちへのメッセージ……などなど。母も交えて話し合わなければならないことは山ほどある。
「た、し、か、に……そうね、うん、そうする」
「そうだね」
「でも、そっちも、やっておかなきゃならないこと、あるでしょ?」
「あ、あのことだね」
「そ、あのことだし」
落書きグループの実態をこちら側ではっきりくっきりとさせておく必要がある、ということだ。犯人の純一ですら、全容は知らないらしいのだ。まさかの時のために、知っておかなければならないことがあるのだ。
まるで秘密のフレーズのような「あのこと」を繰り返していると、父が血相を変えて飛んできた。
ええ? また何か起こった……かしらと、私は、
「どうしたぁ?」
と、訊いてあげた。
「きゃ、きゃ」と、父は意味不明なことを連発していた。
「え? 何? 電話、誰から?」
「は、は、は……」
「何? 落ち着いてよ」
「長谷やん、から」
長谷川署長のことだろう。それなら純一がらみの事件の続報だろうとおもったとき、父は、意外な名を告げた。
「きゃ、キャサリンが……サプライズ……」
「は? な、なに?」
「あ、なんて言ってたかなあ」と、父は故意なのか、呆けたのか、なんとも見定め難かったけれど、それでも顔には喜色が滲んでいた。
私は直接長谷川おじさんの携帯を鳴らして、事情をたずねた。おじさんも多少興奮気味で、『記者会見、記者会見……』を連発していた。
なんとか事情を聴いた私は、純一に言った。
「事件、事件、大事件よ!」
「は? キミまでそんな思わせぶりに……」
「お父さんの言うとおり、サプライズ。でも、ほんとは、プライズのほう。そ、セネパジャで文学賞をもらったみたいなの、キャサリンが!」
「文学賞?」
「……日本で言えば、芥川賞か直木賞……あ、直木賞のほうかなあ……海に落ちた母親の胎内の……」
………の子どもが異世界転生し、壮大な冒険の旅に出る長篇ファンタジーらしかった。その記者会見彼女が戻ってくるP市でやるらしい。それが長谷川おじさんの興奮の理由だ。
そのときに私も同席するのだ。もちろん、父を連れてキャサリンに会いにいくのだ。そうだ、あの表彰状を忘れないで持っていこうとこのときおもった。そして、ふと、一郎くんも一緒に連れていこうと気づいた。
両眼をキョロキョロさせて私をみていた純一に、
「これから忙しくなるわよ」
と私は宣言した。
「お父さんもよ、しっかりしてね。キャサリンの記者会見の席で、記者のみなさんにマカロンをあげましょ。せっかくだから、みんなを巻き込んでこの町の宣伝になるような包装と挨拶文も考えなきゃね」
一方的に喋り続ける私を、お父さんと純一が見ていた。
私は笑った。
すると、つられるようにお父さんが笑い、それが純一に伝染した。戸惑いと巡り合わせの複雑な偶然の連続……に、突如として噴き出た笑い声だったかもしれない。天国の瑠美さんにもその音とざわめきをぜひにも聴かせてあげたいと私は心底おもった。
(瑠美さん……私、負けてあげる……あなたの勝ちよ)
( 了 )
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