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元カレとその他についての二、三の展開
「おい、ちょっと見てこい!聴いているのかっ!純一の野郎が、値引いてないか、見てきてくれ!」
平日でも夕方になると、父の関心はそこへ行き着くらしい。
「ねえ、お父さん、気持ちはわかるけど、そろそろ、止めたほうがいいんじゃない?」
できるだけ感情を抑え、視線を逸らして天候の挨拶をするような口調で言ってみた。それも父には他人事のように聴こえたらしく、余計に怒りを煽ってしまった。
「な、なにぃ! お、おまえが、それを言うかぁ! そもそもやな、マカロンの作り方をあいつに教えたのは、おまえだろ? なあ、智恵、この戦いは、おまえのリベンジでもあるんだ!引き下がってたまるかっ!」
父の唾が飛ぶのをみて、やはり、ため息しか出ない。このところ、私はため息ばかり吐いている。
それにしても、“リベンジ”とは、何という言い草だろう。横山純一との終わりは、自然消滅とはいえ、すったもんだと揉めたわけでもなんでもない。話し合いの場こそ持たなかったけれど、それはそれ、以心伝心のようなもので、互いが距離を置いた結果でしかないのだから。
もっとも、善意から横山純一に、『なんならマカロンでもつくってみる?』と言ったのは、この私だ。
……それは当時、病床のかれの妻、瑠美さんを世話するため岡山の建築事務所での仕事を辞めた純一への、それこそ昔のよしみのような同情でしかなく、まして、彼の息子、その頃はまだ三歳だった一郎くんに、お父さん手作りのマカロンを食べさせてあげれば少しでも気持ちがなごむかな、という程度のほんの思い付きから出たものだった。
その一年後、一郎くんは、母親を喪った。
文具店を継いだ純一が、売れない文具の棚に手作りマカロンを置いて売り出したのが四か月前のことだ。
・・・・こんなご近所に住んでいても、瑠美さんの葬儀以来、純一とは顔を合わせていなかった。
「ねえ、わたしのリベンジ? って、それは、ちょっと違う話でしょ!」
今日ばかりは、父との争いのほうにもケリをつけねばと、なんとか私は踏ん張ってみせた。
「違うもなにも、おまえを振って、別の女を孕ませたのは、純一の野郎じゃけんのぅぉ!」
嫌味めいた父の一言は、通りがかりの人が耳にすれば、痴話喧嘩にしか聴こえないだろう。しかも、純一の野郎と、侮蔑の語呂合わせを楽しんでいるかのような父の罵声がいやで、今のいままで真正面から父と向き合ってこなかった私にも責任がある。
「……かりにだぞ、おまえの初めてのオトコだといって、甘い顔してたら、それこそ、純一の野郎の思う壺だらぁがぁ!」
このとき、父よりも、こちらの血圧が一気に上がった。・・・・はずである。
静かでおだやかな四季折々の田園風景。
自然と親しみ、自然から学び、古代人の叡智をいまに受け継ぐ町。
……町の観光協会が作ろうとしていたリーフレットには、そんなキャッチコピーが書かれている。
まだ、完成はしていない。予算がつかずに、そのままになっていたからだった。
「なにかとチエも大変ねぇ」
開口一番、私の顔を見るなり、ノブが笑った。小中と同じクラスだった伸世は、いまでは数少ない親友の一人だ。
彼女が大都市の大学に行ってからは、ずっと疎遠になっていた。結婚式にも呼ばれなかったし、出産したことも知らなかった。ところが、離婚して、この故郷に戻ってきてからは、毎日のように会う仲になった。
たぶん、親の反対を押し切って結婚し、それが破綻したことで、実家とはいえそれまでの身勝手を修復する期間というのは、居づらさに息が詰まったはずだ。それを和らげるのが、旧友である私の存在だったと、ノブが吐露してくれたことがある。駆け落ち同然だったので、式も挙げてなかったことを、そのとき初めて知った。
私にしても純一と別れたあと、気持ちの持ちようを仕事シフトに切り替えていたもので、父との感情の隔たりを埋めてくれたのは、ノブとの食事であったり、買い物であったり、散歩であったりと、互いが相手の存在を必要としていた時期が重なっていたのかもしれない・・・・。
「なにかと? って? なぁに?」
町の外れにある川岸のレストランで、平日のランチをノブと楽しむのは久しぶりのことだった。ノブの愛娘、チビノブ(本当の名は、美沙なのだけれど)は来年は小学生になる
「だから、ほら、選挙もあるし、盗難もあったし、それに……」
「それに?」
と、気兼ねなく私は急かす。
「……だから、純一さんのことも……」
と、ノブは遠慮なく突っ込みを入れてくる。
「あっ、マカロン?」と、私。
「そ、マカロン戦争!」と、ノブ。
「お父さん、まったく聞かないの、私の言うこと。いいかげん、血圧あがるようなこと、してほしくないのに……」
「うーん、だから、それは、むしろ、チエの問題だと思うけど。チエのお父さんを巻き込むなんて、かわいそう」
「え? 私の問題?」
「そ! チエが、純一さんと、きちんと話をするべきでしょ!」
「私が?」
「そ! チエが!」
なるほど私の問題と指摘されてしまえば、こちらは抗弁のしようがなかった。第三者からみると、そういう視点があったとしても不思議ではない。
「あのね、チエ。純一さんの奥さんが亡くなられたとき、うちの両親、あたしになんと言ったと思う? 『おまえの子連れ再婚の相手ができたぞ。案ずるより産むがやすし、とはこのことさ』……だって」
「ひゃあ」
「だ、か、ら、そんとき言ってやった。チエがきるでしょ、って」
「私が?」
「そ! それが丸くおさまる名案! ちゅうか、なんちゅうか折衷案かも……噂のマカロン戦争も、それで無事に終結……チエのお父さん、本当のところ、実はそのことを期待してたりして」
「ま、まさか!」
それは想定外の内容だった。開いた口がふさがらない。いや、最近、ふさがらない事が立て続けに起こっているから、これしきのことで驚いてもいられない。
ノブは観光協会の正規職員で、ペンディングになったままのリーフレット作成の担当者だった。
正規といっても、職員は二人しかいない。あとは町役場からの出向者と、商店会の合同事務局から一人が不定期で出勤している。
もっともこの町の観光資源といえば、無きに等しい。しいてあげるなら、古墳群と、のどかな田園風景しかないのだけれど。
「・・・・あ。今日はそんなことより、チエにお願い事があって。うちで働かない?」
「観光協会で?」
「そ! だって、文化財保護センター、いま、捜査中で、チエ、仕事無くなったんでしょ?」
「捜査・・・・そんなに長びかないと思うけど」
「いやいや、田代さんに聞いたら、バックに大掛かりな骨董窃盗団がいるみたい」
「・・・・・?」
田代誠……は、隣市で出しているタウン誌の副編集長だ。広島で地方紙記者をしていたとき、請われて生まれ故郷に戻ってきたUターン組だった。私は二度、彼から取材を受けたことがある。そもそも、町の観光PRのために、田代をノブに紹介したのはこの私なのだ。
「窃盗団か……じゃあ、内部の犯行ではなかったんだ!」
私が言うと、ノブは首を横に振った。
「でもね、田代さんは、内部に手引きした者が必ずいるはず、って言ってた」
「て、手引き!」
「そ! ま、チエじゃないとは信じてるし」
ゴクンとジュースを飲み干しながら、ノブはにやりと笑った。
それにしても犯人は一体誰なのだろう。どこか不吉で冷たい予感が、突然、私を襲ってきた。
ゴクン。
いつもは大好きな酢橘ジュースを飲んでも、味もにおいも感じなかった。
ノブを見送ってから警察署に向かった。
P警察署長の長谷川警視は、今は亡きかつての実力者町長の一人息子で、実は、これまた私の父や母とは因縁浅からぬ人物だった。
手っ取り早く言えば・・・・母律子の初恋の人らしかった・・・・。
「ひゃあ、ちえ坊、久しぶりやの・・・・元気でおりンさった?」
長谷川署長が私を見て、心底嬉しそうに笑いかけてきた。
・・・・応接室でも取調室でもない。かなり広々とした署長の個室だった。
「ありがとうございます・・・・この部屋で事情聴取するんでしょうか」
「事情聴取? あ・・・・ま、似たようなもンじゃけんど……」
一気に署長の喜色が消えた。むしろ、こちらが異様に感じたほど、かれの笑顔が急に萎びていった・・・・。
「え? 窃盗事件・・・・の件ではない・・・・?」
「そ、そうなんだ。じゃけんど、現地でちえ坊に話を聴くとなると、ほれ、律ちゃんの耳にも入ってしまうじゃろ? 選挙に出ンなさるようだし・・・・悪い噂が立ったら、マズぅなると・・・・おもうての。窃盗の事情聴取を口実にして、ちえ坊に出向いてもろうたンじゃわね」
「わ、悪い噂が立つ・・・・?」
思わず繰り返してしまったほど、私も驚いた。
……長谷川署長のことを、“はせやん”などと呼んで馴れ親しんでいた時期が幼年時代の私にはある。父が外国航路に乗っていた頃だ。
私が小学一年生になるとき、入学式に同行してくれる役柄を、役場の緒方とこのはせやんの二人が、どっちが出席するかと言い争っていたようないないような・・・・そんな記憶がのこっている。当時は、町の駐在所勤務だったはずである。
緒方にしても、この長谷川にしても、もしかすれば、私の父親になっていたかもしれない対象だけに、やはり、なかなかどうして、気まずい心持ちはいまだに抜けきれないでいた。
「あげだがね」と、署長は言った。
「実は……この写真を見てもらいたいンじゃがの」
それはA5判ほどの大きさの写真だった。
顔写真だ。
「うちの鑑識に言うて、パスポートの写真を引き延ばしてもろぅたンじゃがの」
女性の顔。
日本人ではない。髪は栗毛。瞳も淡いブルーがかっていた。
「……二十五歳。この女性がの、わざわざ、日本まで訪ねて来ンさったんじゃけど」
「だ、だれをですか?」
「……ん? そげだがね、ちえ坊のお父さん、そう、幸さんが、自分の父親じゃないかいうての」
「は……っ!」
そのとき、私は、どんな表情になっていたことだろう。
何度も頷きながら署長は心底、同情している気遣いの視線を投じてきた。それを受けとめる余裕もなく、私の頭のなかは真っ白になった。
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