154人が本棚に入れています
本棚に追加
新たな疑惑
そのとき、店のガラス戸を叩く音が響いた。
「あ!おばさん!」
昨夜会ったばかりの横山のおばさんだった。私の顔を見るなりすがりつくように叫び立てた。
「智恵ちゃん、助けて! 助けて! じゅん、純一が、純一が……つ、捕まった……」
「だ、誰に?」
「け、警察……さっき、P中央署の長谷川さんが知らせてくれなすっただがぁ……D警察署に連行されたようだと……」
「え?」
「あの窃盗事件の一味やないか言わっしゃて……」
私の口から言葉は出なかった。急に息苦しくなって倒れかけたとき、父が奥から現れたのが見えた。悠長に賞状筒でぽんぽんとリズムよく自分の頭を叩いている……。
奪い返してこちらが思いっきり叩いてやりたいような苛立ちが、じんわりと私を襲ってきた。
どう考えても、あの純一が遺跡発掘物の窃盗団に与しているとは思われない。
これはなにかの間違いか、それとも、もっと奥深いところで画策され進行しつつある陰謀なのか とも想像してみた。父の隠し子騒動にようやく光明が見えかけた矢先の衝撃だけに頭の中が真っ白になっていたせいかもしれない。
……教えてもらっていたP警察の長谷川署長の個人携帯を鳴らしてみたが、電波がどうのこうというアナウンスを聴いて、すぐに切った。文化財保護センターにも連絡したが、留守録にも転送されなかった。
タウン誌の田代誠の顔が浮かんだけれど、止めた。情報通の田代はなにかを掴んでいるかもしれないけれど、なにもこちらから新たなネタを提供してやることもないだろう。
「おい、誰からだ?」
突然、父が訊いてきた。
純一のことを伝えると、なんとも言えない微妙な、憐れんでいるふうでもなく、といって喜んでいるふうでもなく、他人の不幸はこちらのなんとかといったことわざ通りでもない、そんな表情をかいまみせて、ふうむと唸った。
「逮捕されたのか?」
「横山のおばさんは『連行された』みたいに慌てていたけど、たぶん、事情聴取じゃないかなあ、任意の……」
「お! どこの署だ?」
「D警察署」
「それ、県庁の隣だがね……なら、ちょいと聴いてみてやるだにぃ。外国航路時代の同僚の息子がD署にいるだがね……待っちょれ」
それだけ言うと父は固定電話の受話器をとった。日頃、“純一の野郎”と面罵するようなことしか口にしない父が、その野郎のためになにかをしようとしている姿が、ほんの少し滑稽に思えてならなかった。
残念ながら父のコネからは、純一に直結する情報は何も得られなかった。けれど、当日、D署が逮捕した者はいないことは確かなようであった。それに重要容疑者が連行された形跡もない……と断言していたことを、父が伝えてくれた。
なおもなんとかしようと父は店の註文控えを綴じ紐で縫ったメモをペラペラとめくり出した。よほど動揺していたのだろう、パニックになったとき人間は意外な行動に出る……まさにそのことを私の目の前で父がやっていることに驚いた。
「そんな使い古しの紙の束をたぐっても、意味ないと思うし」
気がつけばそんなことを口に出していた。
ムッと睨みつけてくる父の視線が、こちらの口調とは裏腹に、私が微笑んでいるのをとらえたのだろう、急にそわそわと弱くなった。そして照れ笑いに変わった。
「お、役に立たんかの」
「うふふ、お父さん……ありがと」
「ん……なにが……?」
私がことばを探しあぐねていると、時の仲裁役が現れた。
一郎くんだった。
「連絡あったよ。パパ、もうすぐ帰ってくるって」
「ん……」と、歯から洩らしたのは、父と私、どちらだったろうか……。
やっとP署の長谷川警視と連絡がついた。
「……ひゃあ、ごめん、ごめん、何度もちぇ坊からレラもらってたのに……さっき純一くんのご両親にもお伝えしておいたけど……」
「あ、いま、聴きました……いろいろ、ご迷惑を……」
「いや、逮捕されたんだ」
「え?」
「だ、か、ら、安心だよ、逮捕されたから」
「えぇ?」
「あ、純一くんじゃない……埼玉と大阪の古墳の盗掘現場で採取された指紋から……」
……犯人の一味が特定され、一網打尽になったということらしかった。今夜のニュースは必見だぞ……と、長谷川署長は興奮はなはだしく、取材か記者会見の準備なのか知らないけれど、途中で会話が切れた。
父は……とみれば、なにやら一郎くんと楽しげに喋っていた。
その間に、私は昨日の余り物でカレーを造った。ジャガイモの代わりにカボチャ、タマネギの代わりにレタスのみじん切り。ネギと砕いた豆腐を炒めて蕎麦汁で味付けたやや大きめの薬味をのっけた……私が高校のときに編み出したオリジナルレシピだ。
見た目の不気味さに最初はたじろいでいた一郎くんは、それでも残さず平らげてくれた。父にも造ってあげたことはなかったので、珍しさのおかげか、黙々と食べていた。
人がものを一心に食べる姿は……それはそれで美しい。ふと、そんなことをおもってしまった。
喋り合いながら笑いながら食べるのではない。ただ、黙って、モクモクモグモグと食べる……スプーンの音、お皿の音、お茶をすする音、噛み砕く音、ああ、こんなふうに感じたのは本当に久しぶりのことだ。
話合う、笑い合うこともそれはそれで大切なことにはちがいない。けれど、何も喋らず、相手に話すことを強要もせず、笑うことを強要もせず、一心にものを食べる……そのときに発するさまざまな音は、このときの私にとっては心地よい響き以外のなにものでもなかった。
純一が一郎くんを迎えにきたとき、父はかれと一緒にお風呂に入っていた。こんな急転回は想像もつかなかったことで、そろそろマカロン戦争にも終幕が近づいてきたのかなあと、そんな気がしてきていた。
「……一郎くん、今夜はこっちに泊まればいいし」
そんな言葉をつい吐いてしまっていた。お向かいさんなので、ものの一分で移動できるというのに、あえてそんなことを口にしたのは、父に実の孫になっていたかもしれない一郎くんと一夜を過ごしてもらいたいとおもったからだ。
すると純一が、
「それはいいけど、隠し子のことは解決したの?」
「あ……忘れてた」
「ええっ?」
「だって、横山のおばさんが、純一が逮捕された、捕まった……って、騒ぎ立てるんだから」
「あ、そうか……心配かけて……でも……実は……ここだけの話……ほかの事件の容疑者なんだ、おれ……いまでも……」
「ん……えぇ?」
飲みかけたビールを吐き出してしまいそうになって、私は噎せた。
「だ、大丈夫か?」
「大丈夫かって、どういうこと? 他の事件?」
「うん」
「え? うん、じゃないでしょ!よ、容疑者?」
「ん……犯人……かも」
純一の顔を睨んだ。冗談を言っている表情ではない。だって、私にはわかる。初めての男だし、元カレなのだから……。
最初のコメントを投稿しよう!