斜め向かいの敵

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斜め向かいの敵

「なにぃ?20円引きだとぉ? これ以上マケると、赤字だぞぉ」  赤字、赤字、赤字……と叫びながら父が赤い顔になるのは今日これで何度目なのだろう。怒りに(あお)られた父の顔は、夜叉(やしゃ)一歩手前に見えた。  もっとも。  夜叉など私は一度も見たこともない。けれど、高血圧を心配する娘の気持ちというものを、そろそろ理解してもらいたいものだとおもう。  このまま脳卒中で倒れてしまったら、“戦い”どころではない・・・・。しかも、この数年で、三度も父は緊急入院している。 「よ、よっしゃぁ! う、うちは、30円引くぞぉ! 智恵(ちえ)ぇえぇええ、値札を書き換えてくれっ! い、い、いや、この前使ったやつがあったな・・・・そのへんにないか、早く見ておくれんされ」  一度、言い出したらあとにはひかないのが、父幸雄(ゆきお)の性分だ。  私はもう一度、の値段を確認するために通りに出た。  一車線しかない狭い道をはさんだ斜め向かいに、横山文具店がある。一人息子、横山純一と私は幼馴染みだ。  ・・・・・文具店の前では、小二になった純一の長男、一郎くんが、いつものように声を張り上げていた。 「マカロン、おいしいよぉ! パパが作ったマカロンだよぅぉぉお!」  土曜日の夕方は、萎びかけたこの商店会にもそれなりの人通りがある。そこで、一郎くんが大声を張り上げると、道往く誰もが物珍しげに一度は立ち止まる。すると、一郎くんは、おもむろにこう叫ぶのだ。 「……亡くなったママも、おいしい、おいしいって、言ってたよぉぉおぉ……ホントだよぉおぉおお」  いや、叫ぶのではない。少し声のトーンを落とし、ややうつむき加減に、ぼっそり、こっそり、ひっそりとつぶやくのだ。  これをやられてしまうと、立ち止まらない人は、まずいないだろう。そして足を停めたら、そのマカロンを買わずにはいられなくなる……はずだ。  だって、この私がマカロンの作り方を伝授してあげたのだから。  横山マカロンは、いつの間にかリピーターが増え、いまでは、週末ともなれば、開店と同時に人だかりができることもあるほどの評判になっていた……。  1個100円、5個入り箱で450円。  しかも、夕方には、10円、20円と値引きしていく……。  これに、私の父は激怒しているのだ。 『よりによって、文房具屋がマカロン売るなよなあ』  ま、確かにそのとおりなのだけれど、これではますます父の血圧が上がっていく……。  おりにふれ、母、律子に相談するのだけれど、母は母で町議会選の準備でそれどころではなかった。  父の口癖ではないが、どうして、母が議員に立候補しなければならないのか、いまだに私も納得できないでいる……。  ・・・・私が産まれたとき、父はいなかった。日本には、という意味だ。  外国航路の商船に乗っていた。  あっ、タンカーだったかも。その頃の話はなぜか父はいまもあまりしない。  父は航海士だったはずだ。  私が小三の頃、商船会社を辞め、瀬戸内の島々と陸をつなぐフェリーボートの船長になった。  父が家に戻ってきたのは、やはり私のことが気がかりだったのだろうとおもう。なぜなら、当時、年に一度、船の修理保全(ドック)のために、神戸港や呉港に停船したときだけ家に帰ってくるもので、私が父に(なつ)くはずもなく、子ども心にも“どこかの知らないおじさん”といったイメージだったのだろう、私はとても怖がって抱きつこうとも近寄ろうともしなかったらしい。その記憶は私のなかにも色薄くはあっても、いまだに片隅に(とど)まっている。  ほどなくして航路再編のためフェリーボートの乗員削減で、父はしぶしぶながらも、この〈呉羽(くれは)洋菓子店〉を手伝うことになったのだ。  ・・・・呉羽(くれは)家は、母律子(りつこ)の実家である。  そう、父は婿養子なのだ。  母の祖父が開業し、細々ながらもこの商店会の一角でなんとか持ちこたえ、私の祖父があとを継いだ。本当は、娘の母に店をやってもらいたかったのだろうけれど、早くから弁護士事務所の庶務業務をしていた母には洋菓子づくりには向いているはずもなく、父が祖父の元で修行して継いだ。その祖父母はすでに亡く、なんとか父一人でやってきたのだが、衰微の一途をたどっていったのは、パティシエでもなんでもない父には、売れる創作ケーキなどは作れず、なんとか保存の効くクッキーとマカロンを売っていたにすぎないからだろう。  ケーキはといえば、隣県でかなり有名な、祖父の親友でもあった洋菓子店の好意で、安く仕入れることができ、そのまま店頭に陳列していた。それでなんとかやり繰りができていた……というのが現状だった。  古びた名前だけの商店会通りの一角にあるわたしたちの洋菓子店は、時代から取り残されてしまった残滓(ざんし)のようなものだった。こんな田舎にすら、スーパー、郊外型家電量販店ができ、商店会通りは、“街”ではなくなった。シャッター街と人は言うけれど、このあたりはシャッターすらないのだ。  もともとアーケードもないし、廃業していく店舗の跡地は駐車場になっていった。商店会の力がないから、行政の補助金もおりない。だから、よけいにすたれていく。この悪循環。しかも同じように潰れかけ寸前の横山文具店に、『マカロンを売るな!』 とは口が裂けても言えない·····。  けれども。  このままでは、父の血圧上昇が心配なのだ。商品の売り値を下げ、血圧を上げるのでは笑い話にもならない。 都市圏の大学に進学したかった私は、あろうことか独り暮らしをさせない点で両親が一致団結してしまったその(あお)りを食らって、この店から片道二時間をかけて隣県の短大に通うはめになった。  ……私の専門は歴史考古学だ。  近隣にはおそらく大和朝廷よりもさらに古い王権(この呼称にはいささか学会でも定義が(わか)れていて、論者によって使用が異なるのだけれど)の古墳群が散在していて、その風象に慣れ親しんできたこともあったのだろう、将来への計画もなにもなくその道を選んだ。母も父も、私が教員になるのだと勘違いしていたようだったが、遺跡詳査のフィールドワークが忙しかったせいもあって就活の時期を逸してしまい、町役場の臨時職員になった。  議会折衝担当という、(てい)のいい雑用連絡係として三年働いた。  このとき、議員さんたちから、 『うちの息子はどうじゃろぅの?』 などと、それはそれで嫁候補として注目の的だったようだけれど、すべて断った。なぜなら、当時、横山純一と付き合っていたからだ。  いや、はっきりいえば、互いに微妙な時期だったはずで、建築家をめざしていた純一は、広島や岡山の建築事務所を転々としていた頃だった。私は私で休日には古墳巡りを続けていたので、純一に会うために遠出(とおで)することもなく、やはり、互いが互いをおもいやる心持ちというものに二人とも欠けるところがあったのだろう、自然消滅のように関係は終わった・・・・。  そのとき烈火のごとく憤ったのは、父である。 『智恵をにしてそのままで済むとおもっとるだらぁが!』 と、横山文具店に殴り込みをかけたのだ。  横山のおばさん、おじさん(純一の両親は私にとってもご近所さんの家族みたいな親しい人なのだ)にしても、純一と私の挙式を心待ちにしていたらしく、怒鳴り込んだ父を囲んで、三人で夜明けまでやけ酒を飲んだようだった。  その後、しばらくして、純一は、瑠美(るみ)さんという岡山の人と結婚し、ほどなく一郎くんが産まれた。典型的なできちゃった婚だ。  瑠美さんと交際していた時期が私とかぶっていたのかどうかまでは知らない。そばで支えてあげようとしなかった私には、純一を責める資格などあるはずもなかった。  それからの私は、文化財保護センターでの週三日勤務の臨時職員、母が開業していた呉羽司法書士事務所のアルバイト、土日は父の店を手伝う・・・・といった三所掛け持ちのサイクルが自然と出来上がっていった。  そして、私は、今年二十七歳になる……。
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