2 矛盾

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2 矛盾

「ねえ」 彼女は、ぼうっと窓の外を眺める私に話しかけた。 「勉強するんじゃなかったっけ?」 薄暗い空。流れる雲は灰色をしている。地面に這いつくばる家々の残骸はどこまでも連なり、やがてくすんだ鉛色の海へと向かう。 ………………。 私は窓の外を眺める。眺めながら、彼女の問いに答える。 「私はね、矛盾にハマってるのよ。最近」 「答えになってない気がするんだけど」 「ほら、今の私を見てみなさい。勉強するから学校行こうって言って、あなたを誘っておきながら、自分は勉強しない。これって矛盾じゃない」 ………………。 しばらくの沈黙が続いたので、私はついに彼女の方を見た。彼女は机に広げたノートを睨みながら、右手で鉛筆を弄っている。 「心配しないで、私の頭は正常よ」私はそう言ってみた。 「頭が正常なら、矛盾にハマってるなんて意味不明なことは言わない。よってその発言こそ矛盾してる」 「いいねえ、矛盾返し」 ………………。 彼女はまた黙り込んで、ノートに意味不明な数式を書き出していく。 「面倒になったらすぐ沈黙に逃げるんだから」 「うるさいな。今いいとこなの」 「そんなに勉強が楽しい?」 ………………。 割れた窓から吹き込んできた風が、彼女のノートを無意味に捲っていく。床に散乱するプリント類が、廃れた校舎に掠れた音を響かせた。 ………………。 ………………。 「しょうがないじゃない。この世界に残された、私の数少ない娯楽なんだから」 彼女はこちらを向くと、静かに笑った。 ………………。 「数学なんて、私からしたら、この世界で最も娯楽から遠い存在よ。何度も言うようだけど、」 「せっかく二人だけの世界なんだから、もっとやりたい放題しようって言うんでしょ」 「分かってるじゃない」 「何度も聞いたからね」 「こんなに面白い世界で数学やるなんて、矛盾してる」 「面倒になったら矛盾に逃げるのねー」 彼女は呆れたように、またこちらを向いて笑った。 ………………。 そして彼女は、ノートに目を落とした。 ………………。 「それにそもそも」と、彼女は続ける。 「この世界のどこが面白いのか、私にはさっぱり。ボロボロで、うすら寒くて、ずっと曇りで、人口二人の世界……。暖房の効いた部屋でぐっすり眠れてたあの頃が懐かしい」 ………………。 ………………。 少し、建物が揺れた。天井の壊れた蛍光灯から埃が舞い落ちる。どこかから何かが軋むような音がする。ここ最近、小さな地震が頻繁に起こっているようだ。また、大災害が起ころうとしているのかもしれない。神様は、この世界に人間は一人もいないと思っているのだろうか。それとも……。 ………………。 彼女の目はその長い髪に隠されて見えない。ただ彼女の髪の毛は、元の世界にいたときのショートヘアーにも劣らない、美しい髪の毛だった。 ………………。 ………………。 彼女の髪の毛が揺れた。彼女がまた何か言おうとしている。 でも私は、それよりも早く彼女に言った。 「この世界が面白くないって言った?あなた、矛盾してるじゃない」 彼女は「何が」と呟く。 「私はこの世界で、数えきれないくらいあなたの笑顔を見た記憶があるのだけれど」私はそう答えた。 ………………。 ………………。 彼女は再び顔を上げた。口元には、いつもの人を馬鹿にしたような笑みが浮かんでいた。 「あんたのために、矛盾してあげたの。友達思いでしょ?」 ………………。 ………………。 私は席を立ち、ゆっくりと彼女に近づいた。そして、彼女の肩に手を当て、さらに身体を近づけた。 「そうね。ありがとう」 彼女に少し体重を預けてみる。彼女の体温を感じた。さっきまで鉛筆を弄っていた彼女の手は、いつの間にか私の腕に触れていた。 「まったく。この世界は矛盾だらけね」彼女は言った。 「こんなに最悪な世界にいるのに、私の心は満たされている」 「また矛盾してくれたの?やるわね。あなたも矛盾の素敵さが分かってきたんじゃない?」 「まあね」 外から、地響きのような低い音が響いてきた。空を飛ぶ真っ白な光。それは流れ星よりもはるかに眩しく速く、海の向こうへと消えていく。 ………………。  それからやがて、水平線で赤い光が爆発し、黒い煙が立ち上っていった。 「あ、隕石だ」私は思わずそう言った。 「あーあ、やっぱりこの世界最悪」 「そんなこと言わないの」 二人が静かに笑いだしたと同時に、飛行機のエンジン音のような爆発音が校舎に届いてきた。
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