5 殺人容疑

1/1
前へ
/13ページ
次へ

5 殺人容疑

キッチンでせっせと働くお母さんの後ろ姿を、僕はじっと見つめていた。 「お父さんは?」 その背中に向かって聞いてみた。 「お父さんは、今日は早く会社に行ったのよ。それより早く朝ごはん食べて、学校行く準備しなさい」 お母さんは皿洗いをしながらも、そう答えてくれた。僕は言われたとおりに、目の前の丸いお皿に載せられたトーストに手を伸ばし、口元に運び、そっとかじりついてみた。口の中がパサパサで、なかなか飲み込めなかった。 僕はジャムを舐めながら、ひそかに考えていた。 いつもお父さんの腕時計とか財布とかがおいてある棚。でも今日は、そこには何も置かれていない。いつもお父さんの服を掛けてある所にも、代わりに僕の小学校の制服が掛かってる。お父さんのスリッパも無い。会社に行ったのなら、玄関に脱いであるのかもしれない。 僕はなぜか、今すぐ玄関に行ってスリッパがあることを確かめたくてたまらなくなった。 もう一度、お母さんの後ろ姿を見てみる。僕が見ていることには、気付いていないみたいだ。水道の水が流れる音。冷蔵庫が開けられる音。壁に掛かったタオルはしわくちゃだ。 僕はふと思った。お母さんは、お父さんを殺してしまったんじゃないか。 そういえば、お父さんは昨日いつもより帰るのがちょっと遅かった気がする。 そういえば昨日の夜、お母さんはお父さんとあまり喋ってなかったかもしれない。 そういえば、今日のお母さんは機嫌が悪そうに見える。 僕が昨日の晩、自分の部屋に戻ったとき。そのときとっくに、お父さんは殺されていたのかもしれない。それか、僕が寝てるときか。もしかしたら、ついさっきかも。 今お父さんの書斎に行ったら、机とベッドが血まみれになってるんだろう。お母さんの部屋のクローゼットの中に、死体が隠されているんだろう。今いきなり警察が入ってきたら、どうしよう。 なぜ、こんなことになったんだろう。けんかして、リコンしちゃいそうになったのかもしれない。僕は牛乳を口でぐちゅぐちゅしながら、少し不安になった。お母さんの背中が、じっとこっちを見ているような気がした。 二人の間に何があったんだろう。いや、僕が何かやっちゃったから、それで色々あって殺したのかもしれない。 食器のカチャカチャという音が、水道の低い音が、僕に話しかけてくる。お父さんは包丁で刺されたのだろうか。痛かったに違いない。僕は、前にみんなで家族旅行をしたときのことを思い出していた。僕とお母さんとお父さんの三人で、記念写真をとった。二人は、そのとき笑ってた。多分。分からないけど。 「あ、そうだ」 いきなり、お母さんがそう言った。音が、ピタリと止まった。お母さんは、ピンクのゴム手袋を外して、シンクに置く。お母さんは、タオルで手を拭く。お母さんの、茶色っぽい髪の毛が揺れる。お母さんの髪の毛は、一本一本がバラバラでグシャグシャだ。お母さんが振り返る。お母さんのスリッパが床を踏む。お母さんの手に残った水滴が落ちる。その手には、チラシみたいなものを持っている。こっちに近づいてくる。少しづつ。足音が。 僕がトーストを飲み込むと同時に、チラシが机に置かれた。キラキラとした背景に、大きくて豪華なお弁当がいくつも並んでいる。その中に入ってる食べ物は、コンビニにある弁当とは全然違っていた。そして、それぞれの弁当の下に書いてある値段も、全然違っていた。 「たまにはこういうのもいいかなと思って。今日の晩ごはんは、それ。好きなの選んでいいよ。お父さんは、このお魚のやつにするって言ってるんだけど、あんたどれがいい?」 僕はお母さんの顔を見上げた。いつも通りの、優しい笑顔を浮かべていた。僕はその顔を見て、それだけで、お母さんとお父さんは何ともなかったんだと確信した。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加