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16.
狭いベッドで折り重なるようにして二人で仮眠した。
久しく忘れていた気だるい開放感と肉体の疲労で次の元号まで寝ていたかったが、悲しいかな朝日が昇りきる頃にはちゃんと仕事が待っている。
春田を起こさないように床に散らかっていた衣類を一つ一つ集め、順番に着込んだら、ベッドにもう一度屈み込む。
寝ている顔を隠す髪をそうっとかき分けて、おでこまで出してみる。
この数ヶ月、いろんな表情を見てはきたが、一番寝顔が綺麗だな、と思った。
瞳が閉じているときの二重ひだの折り目を初めて会った時は構造を気にしたものだが、今見てみるとぴっちりとしまったカーテンのように線は消えている。もう一生見ることがない顔だと思うと、名残惜しかった。
そこでようやく心に巣食っていた名前のない気持ちを恵知は認めることができた。
自分は春田と別れるのが嫌なのだ。
だからなんだよ、と同時に思う。
好き、なんて生易しい感情で縛り付けて、どこにも行き場のないこの人生を一緒に背負いこませて春田になんの得があるっていうんだ。今からでもきっと間に合う、春田にはちゃんと列車に乗って欲しい。
いつまでもホームのベンチで目的もなく座っている自分などさっさと置いていくべきなんだ。
起き上がったら、ぱちっと春田の目が開いた。夢の名残を感じさせない覚醒だった。
「悪い、起こしたな」
「行っちゃうんですね」
「ああ。鍵、どうすればいい? ポストに入れとく?」
「玄関まで送ります」
「いいよ、疲れてるだろ」
「送りたいんです。僕が」
言葉の裾に懇願が滲んでいたから、一番下に敷かれていた毛布を引っ張り出して春田の肩に覆わせた。
「わかったわかった。寒いからこれ引きずっとけ」
服をきっちり着込んでしまったら今更ながら気恥ずかしさがむくむく芽生えている。
別れを惜しんだ抱擁からの熱いキス、なんていう雰囲気でもなくて玄関先では気まずくこめかみを掻くにとどまった。
春田は幕開け前のオペラカーテンのように胸元で重なった毛布の端をぎゅっと握りしめている。
「じゃあ、また。元気でな」
「恵知さんも。お元気で」
「ああ。本社行ったら、寄るからさ」
よお元気か、久々だなあ飲みにでも行くか。そんな気易い未来など此の期に及んで描ける筈がないということを、おそらく二人ともわかっていた。
でもは春田は嘘つき、と咎めることはせずおとなしく頷いた。
「…はい」
扉を閉めたら、中から鍵がかかるのを聞き届けないで恵知は階段に向かった。
無機質な鉄の施錠音を耳にしたら、本当にこれが最後だと実感してしまいそうだった。
春田がいる生活はなかなか悪くなかったと、短い四ヶ月間を並べてみる。
ハラハラしたり心配したり、激怒したり喜ばせたかったり、薄暗かった部屋に、ぼうっとオレンジの白熱灯が点されたように、失っていた恵知の喜怒哀楽を照らしてくれた。
しかし今日からそのともし火は消え、また色あせた日常に戻るのだ。
わかっていたはずなのに、自分がそう仕向けたはずなのに、今は春田が来る前のがらんと広い事務所を少しだって思い出したくはなかった。
数時間後には確実にやってくる現実なのにも関わらず。
それでも春田と身体を繋げたことは後悔していなかった。
同様に、春田にも後悔して欲しくないなどと一方的に願ってしまうのは、自分がもう春田のことが好きだと認知していて、記憶の中でも嫌われたくないと思っているからだった。
歩きながら、春田の部屋を細部まで網膜に残るフィルムから現像していた。
さっきまであった出来事を、春田の身体と体温をこの先いつでも思い出せるように焼き付ける。
脳内シアターではベットサイドに映像が変わったところで、恵知はピタリと立ち止まった。
二つ枕元にあった缶コーヒー、一つは旧ラベルだった。しかもだいぶ昔の。
『じゃあ最後に飲み物をなんか買ってあげよう。何飲む?』
「嘘だろ…」
そういえばあの時、春田がプルトップを立てるのを見ていない。
『どれ? 好きなの言って。コーヒー紅茶? コーンスープでもいいぞ』
そして二つ目も。
暖かい缶は両手に握られたままだった。
「あのやろっ…!」
言いながらもう、来た道を走っていた。
力の限り全速力で、公園で鬼ごっこをしていた頃のように、制服を着ていた頃のように。
止まってしまった時が、戻ったかのように。
息切れしながらドアノブに手を掛けて思いっきり引く。
視界に広がる光景には今しがた別れた場所と、そこでへたり込んだ春田がいた。
顔が溶けてしまうんじゃないかというくらい、涙で頬を濡らして。
「何が朝飲むとスッキリだよ、バカっ」
冷たくなった身体を強く抱きしめた。
もうあばらの一本くらいなら折れちゃっても構わないなんて怖ろしい思いがよぎるほど容赦無く、腕に力を込める。
瞬間、ぐっと恵知に体重がかかったので春田が全身の力を抜いたのだと知れる。
「だって、…」
「だってじゃない。あの時からずーっと買ってやったコーヒー持ってたのか? 飲まずに大切に?」
「はい…。毎日起きた後と、寝る前に見てると一日頑張れた、から…」
「お前は絶対嘘つかないと思ってたから、完全に騙されるとこだったよ」
「逆狼少年…」
唇を引きちぎるように、乱暴に口付けた。
今まで春田を通して得た全ての感情を全部放り込んで何度も唇と、その内側の舌を夢中で吸った。
恵知がテーブルに置かれたコーヒーに気づくことがなく、あのまま別れてしまっていたらと想像すると、おぞましかった。
春田が何時までここに座ったまま泣いて、どんな表情で荷造りをして、東京に発つのか、考えたくもなかった。だから来た道を戻ってきて本当に良かったと思えた。
今この細い身体を抱きしめることを、もう迷わないでいようと決める。
たとえこの先の未来が、どんな結果になろうとも。
この四ヶ月眺めてきたたくさんの景色を記憶にとどめて今後慎ましい生活を送ろうなんて、春田が一人で下した覚悟に比べたらなんと脆弱で弱虫で臆病だっただろうか。
だからどうか、時よ止まるな。
「春田。お前俺といて不幸なのと俺がいなくて幸せなのとどっちがいい?」
「恵知さんといれたら、そんなのどうだっていい」
「もうわかった。春田、好きだ」
「えっ…」
ピクリと恵知の胸の中で春田がわずかに動いた。
「離そうとしたけど、気が変わった。離したくなくなった。自分勝手で本当に悪い。俺と一緒にいてくれ」
そうだ、ホームに春田を引き留める必要なんてない。
各駅列車じゃなくていい。
どこにいくかわからなくてもいい。
自分が列車に乗ればいいじゃないか。
そんなことはわかっていたけれど、春田が今ちゃんと、背中を押してくれている。
だから今、立ち上がれる。
「だって僕、明日の夜には東京に…」
「わかってる。春田の異動はもう変えらんねえ」
「恵知さんはこっちにいなくちゃだし…」
「ああ。だからこれからのこと、色々考える。でもちゃんといずれ近くにいれるようにするから。とりあえずは、遠距離ってことで我慢してくれ」
返事を待つため、いったん胸から顔を離すが力は抜けたままなので肩を支える。
春田は俯いたまま口を開いた。
「し、新幹線と電車乗り継いで三時間もかかるのに…」
「じゃあ取り消すか?」
「そ、それは嫌だっ」
慌てて春田はすぐまた恵知の胸に頬を押し付ける。安心させようと、背中を撫でた。
「最短ルートでそっち戻れるようにするから」
「そんな、どうやって」
「俺が本気出したら首都圏配属なんてちょちょいなんだよ」
言いながら、ちょっと楽しくなってきて頭で構想を練ってみた。
店内構造と売上を比べて、ざっと皮算用する。大丈夫、確実にあと一年で今の店の売り上げは数倍伸ばせる。
加川のお口添えなど借りずとも正々堂々と第一線に戻ってやろうじゃないか。
「あ、あんまり僕を放って置かないで、ください」
「当たり前だよ、働く目的が違うんだもん。今後はお前が何より最優先」
涙をこらえきれず濡れている涙袋に、恵知は優しく口付けた。
すると止まるどころかもっと上からこぼれてくる。
水分の出しすぎで干からびやしないかと不安になる。
「ね、願いが叶った…」
春田がポツリと言う。
「願い?」
「伊勢神宮で、お参りした時…恵知さんと、これからも一緒にいれますようにって、お願いしたんです」
真剣に手を合わせる横顔が頭にフラッシュバックする。
あの時そんな願い事をしていたとは、どこまでいじらしいのか。
「じゃあ今度、ありがとうございました、って言いに行かなきゃな」
「はい、たくさんお礼しなきゃです。それと、参拝したあの日、すぐ叶わないじゃんって思っちゃったから。疑ってごめんなさいも言わなくちゃ」
「それは俺も悪かったから、一緒に謝ろう」
でも取り急ぎ、ひとまずはキスをする。
そして早く仕事を終えたらすぐさまこのアパートに戻って来よう。
荷造りを手伝ったり、夕飯を食べたらこの甘い身体を思う存分貪るのだ。
それからしばし離れてしまうけれど、一生の別れじゃないから自然と不安はない。
大丈夫、ちゃんと歩いて行こう。
だって春田がいるから。
これから一日が始まるなんて、なんだか信じられない。
またこのはにかんだ笑顔に会える終業までを、今日はとてつもなく長く感じそうだった。
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