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12.決意
目的の駐車場にはちょうどお昼時に着くことが出来た。平日だったので大型バスを除き普通車のエリアは結構空いている。
「わー伊勢神宮、初めて来ました!」
春田が勢いよく車から転がり出てきた。
車内での気まずい雰囲気はいつのまにか消えていて恵知は肩をなでおろす。
「街全体に趣があってタイムスリップ感がありますね!」
はしゃいでいる春田の鼻が赤い。
ホッカイロとマフラーを予備で持ってきてよかった。
ウキウキ足踏みしている小動物を呼び寄せ、それらを渡す。
「まだ寒いからこれしとけ。まず飯食いにおはらい町に行くか」
「おはらい町?」
「伊勢神宮は内宮と外宮に分かれてんだけど、内宮のここからつながるこの道のこと。昔は城下町だったらしい。食べ物とかお土産とか色々あるから楽しいと思うぞ」
「すごい、詳しいんですね」
「いや、実は俺も三年住んでて来たのは親と支社長が来た時の接待で二回だけ。今日これ三回目。海鮮食べれるなら好きな店行っていい?」
「はい、ぜひ! おすすめのお店知りたいです」
手こね寿司とはこの地方にある郷土料理の一種で酢飯の上に漬けマグロを乗せた丼料理、といえば大して珍しくもないが一人前の木桶に入っているのでそこそこ特別感は演出できる。
ぽいものを食べることが現地を満喫するにおいて何より重要なのだ。
出てきた定食を、春田は口いっぱいに頬張りながら美味しい美味しいと目を細ませる。詰め物でぷっくり膨れた頬を見たら、今日連れ出してよかったという気に早くも一人でなっていた。
彼女の喜ぶ笑顔を見たくて頑張ってデートプランを練っていた学生時代が懐かしい。
そういえばこういう気持ちだったなあと思い出させる無邪気な笑顔だ。
そのままであってほしいと二十五にもなった男を捕まえて勝手ながらに思う。
にっこりしながら思いもつかない悪態をついたり、息を吐くように吐かれる嘘八百のお世辞や処世術など身につけることは自然な因襲であり社会に属するにあたりある程度必要なことだと重々わかりながら。
しかし立ち回りを身につけていないからこそ素直すぎるあまり、期待に応えようとしてしまった結果が過労なのだから、なんとも塩梅が難しい。
「あっ豆腐アイスクリームだって!」
「食うか?」
「食べたい! 恵知さんは?」
埋め込まれたライトで鈍く光るソフトクリームの立体看板を見ただけでもう鳥肌が立ってきた。
「いや俺はいい。クソ寒いのにそんな冷たいもん口に入れたくない…って店内、人めっちゃ並んでじゃん」
「ほら、やっぱり美味しさは寒さに勝るってことです!」
「ひゃー恐れ入るわ。甘いものに季節感なんて不必要ってか」
どうにか仕事から遠ざけてやりたくて春田を車に乗せた今日だったが、思いの外楽しんでるのは恵知の方だった。
大きく一口てっぺんを頬張ってニンマリする表情に満足して、みるみる減っていく白いクリームと春田を交互に眺めていた。
二人でアイスクリーム屋を出るとちょうどポーンと鐘が鳴る。向かいの時計屋の店頭には大きな時計があり、三時を刻んでいた。
「あっ今、クロノスタシス」
「ん? くろの?」
「いきなり秒針を見たときに、一番最初に刻まれる一秒が他の一秒より長くて、一瞬ときが止まったみたいに見えるときありませんか? その現象のことです」
「へえ、初めて聞いた」
「あの時計でやってみてください、すぐ体感できますよ」
言われるがまま眼球を動かしてみる。
確かに秒針に焦点を当ててみると最初の一秒は長く止まっているように感じられる。
「すごいな、ほんとだ。なんで?」
「うーんと確か、ある視点から別の視点に移動している間のコンマ数秒中に、脳は目から入る情報を入れないらしいんです。それで、秒針に合わさったときに視界が動いていた時間を遡って秒針の映像に無理やり合わせちゃうって聞きました」
「勝手に目の映像を脳が改ざんしちゃってるってこと?」
「そうです。だから実際の一秒より脳は長く秒針を見せてる」
「へええ。でなんて言うんだっけ」
「クロノスタシス。ギリシャ語が語源でクロノが時、スタシスが止まるっていう意味です」
「それでときが止まっちゃうってことか。なるほどなあ」
言い得て妙だ。いたく感心すると春田が小さく胸元で手を叩く。
「やった、恵知さんより知ってることが僕にもあった」
「そんなの、いっぱいあるだろ。流行りの曲とか、新しいアプリとか、携帯カメラの操作方法とか」
「そういうことじゃないんです」
「はいはい。五時に内宮閉まっちゃうからささっと参拝して帰るか」
「おみくじは最後に引かなきゃですね」
特に叶ってほしい願いごともない恵知が正宮でさっと二拝二拍手一拝を済ませる間、右隣で春田は真剣に手を合わせていた。
帰り道、気配がふっと消えたので、後ろを振り返ると春田が真剣な顔で立っていた。
「恵知さん…あの、今日は連れてきてくれてありがとうございました。…あと、今まですみませんでした。僕、すごく軽率でした」
春田は深く頭を下げた。さっきまでの軽口とは違い、声が震えている。
本当は今日こうやってちゃんと謝りたくてずっと機会を伺っていたに違いない。
恵知は出来る限りあっけらかんとした声音を作る。
「ほんとだよ。ばれなきゃいいって問題じゃないんだよ。もうあんなこと二度とやるなよ」
「はい。とても反省してます…だからあの…」
恵知を見上げた顔は切迫しながら、くしゃっと歪んでいた。
「僕のこと、どうか見捨てないでください…恵知さんに認められたくて、ここまで来たんです。だからどうか…」
何だかたまらなくなって、この衝動の名前がわからないまま春田の頭に手を置いた。単なる出来心とは言い難い、引き寄せてしまいたくなる気勢をなだめる。
「バカ。見捨てようとしてたらこんなとこ連れて来ねえよ」
振り切るように足を踏み出したのに、思った以上に駐車場は近くて、気分を変えられないまま運転席に座った。
春田が遅れて乗り込むがエンジンをつけたままなかなか発車する気になれない。
そういえばおみくじを引いていなかったことに今更気づく。
「俺はさ、これといった趣味もねえし好きなもんも、もうなんだったかわかんねえような、つまんない大人になっちゃったけど、春田にはこんなやつになって欲しくないんだよ」
「恵知さんは、つまんなくなんかないです」
いつも同様恵知に向けられる疑いのない眼差しを今回ばかりは流せない。
打ちあけようか迷ってたことを、やっぱり口にする覚悟を決める。
「春田さあ、インターンで会った時なんで俺が本社勤務だったか知ってる?」
「そういえば、現場でずっと育った方がいきなり社内報課は変ですけど…単なる人員不足の移動じゃないんですか?」
「俺二十代じゃな、従業員五〇〇人体制の一日一億売り上げるマンモス店舗仕切ってたんだよ? そんなごりごり使えるやついきなりデスクに縛り付けるわけないだろ」
「確かに…」
「若い奴の耳にはまだ入ってねえんだろうな。まあ社歴増えてくとそのうちどっかから又聞くだろうけど。もう四年前になるか…大事件起こしちゃったの、俺」
「えっ何ですか?」
尋ねる春田はまだ想像がつかないようで、声に深刻さは宿らない。
「何だと思う? やばいやつ頭から言ってみ」
「パワハラ? セクハラ? 業者との不当取引?」
「スケールがまだまだひよってんぞ。比べたらそんなの線香花火だな」
ハッと春田は顔を上げる。
「…閉店?」
「お、やっと正解。四千万の一発大損害で、店潰しちゃったわけ」
「赤字、ですか? 窃盗でも店中のブランド品根こそぎ盗んだってそんな金額いかないですよね…」
「出来ちゃうんだよ。従業員が金庫開けちゃったから」
「えっ」
ここでようやくことの重大さを把握した春田は、口に手を当てる。
「そう。売上金の内部窃盗。しかも犯人、俺の一番の部下で副店長までしてたやつ」
「初めて聞きました…」
「俺さあ、マンモス店舗で売り上げガンガン出した後に、支社長への昇格券貰ったわけ。で、席が整うまでの準備期間に勤務したのが今後担当エリアに入ってた立て直しの赤字店舗でさ。すごいだろ、アドバイザーも副支社長もすっ飛ばした人事だよ?」
「ありえないです、さすがです…」
「でもそんな絶好のタイミングでやらかされちゃったから、昇格なんてもちろん白紙、結局その店は負債のパンチもろ食らって閉店まで追い込まれちまったんだよ」
「だって…! そんなの、恵知さんのせいなんかじゃないじゃないですかっ」
緊迫した春田が眉間を深く寄せて反論する。
「って、簡単に言わせねえために役職がついてんの。しかも当然っちゃ当然だけど俺も共犯だと最初思われて、まあ散々だったよ。留置所って、行ったことある? あるわけねえよな」
呼び出されたら何時でも出廷せねばならず、通常の業務に支障が出た。
やむを得ず本社に戻されたと同時に異動した先が社内報課だった。
その間にも着々と赤字は膨らんで、結局その店は恵知のいぬ間にあれよあれよと解体された。
「そ、その人、どうなったんですか」
「後日ちゃんと捕まったよ。でも初犯で誰も傷つけてねえし、三年ぽっち実刑受けてのこのこ出てきてやがる。ま、そんなのはもう今更どうでもいいんだけどさ。そんなこんなやってるうちにどっかでふと、ああ俺何やってんだろーって不意に張ってた糸切れちゃって、なんかもう頑張るのとか色々どうでもよくなっちゃったんだよな」
鬱陶しい前髪ごと恵知は乱暴に頭をかいた。
「こんな昔話わざわざ持ち出して何が言いたいかってーと、俺みたいに人生丸ごと全賭けして仕事しちゃってるとな、何かの拍子でコケた時にストンって魂抜けちゃうからダメだよ。生きる気力なくなっちゃったらその後の人生しんどいぞ。今のお前は、昔の俺よりひどい。ハラハラして、見てらんねえんだよ」
強い口調になってしまっていないかと、慎重に息継ぎを入れて感情を抑えた。春田は一点を見つめて静かに恵知の話を聞いているから反応が伺えない。
「で、ここまでが前置き、ってどんだけ長いんだよってな。じゃあ本題。本社管轄の仕入れ管理に一席空きがある。一昨日、加川にお前を推薦しといた。よっぽどのことがない限り、来月中旬にでも東京に戻れる」
「そんな…!」
大きな黒目が光を失って虚ろに揺れた。
「管理業務なら現場じゃないから今ほど大変じゃない。本社なら九時六時で上がれるしカレンダー通りに動くと土日祝の休みは保証される。ゲームはやり放題の漫画も読み放題だ」
「…つき」
絞り出すような声に耳を傾けると、今度は投げつけるように言い放たれた。
「恵知さんの、嘘つき…っ! 最初から飛ばす気だったんなら、なんで行きで青木さんの話題なんて振ったんですかっ」
「別に、遠距離恋愛なんていくらでもできるだろう。なんなら東京に行くまでの短い間でもいいんだし」
「なんで? なんで? 見捨てないって、言ったのに…。さっき、言ってくれた、のに」
「お前のことは見捨ててねえよ。だからこそこのままだと本当に心配なんだ。無理はして欲しくない。環境を変えなくちゃいけねえ。お前この先絶対そこそこにしか頑張らないって誓えないだろ。どうしても無理やっちゃう性格なのはこの短い間でよくわかってんだよ」
「だからって、こんな、ひどい。やっと一緒に働けたと思ったのに…」
喉だけで響く篭った声なので、泣いているのはわかっていた。
だからこそ、意図的に顔を見ないようにした。
今春田の顔を見てしまったら、自分の選択を後悔してしまいそうだった。
「おんなじ会社にいるんだから、一生会えねえわけじゃない。俺だって本社に行く機会はたくさんあるし、その時は顔覗きに行くよ」
ぶよぶよに汁を吸った麺のごとくブチっと会話は途切れ、しばらくの沈黙が密閉空間に充満した。
辺りに止まっている車はもうほとんどなく、閉館が近いようだ。
シフトレバーに左手をかけたところでその腕を掴まれた。
「好きです」
聞き間違えようがなかった。
目を見開いて助手席を見やると、挑戦的な視線をしている春田がそこにいた。告白というほろ甘い雰囲気なんかかけらも纏っていなく、宣戦布告みたいに座った目で恵知を見据えていた。
映画のワンシーンで主人公が血を拭う瞬間のように、涙を生命線の終わりではじく。
「恵知さんは僕の憧れで尊敬する上司でそれから、ずっと好きな人でした。恋愛対象として、特別な気持ちで」
「そ、そうか」
この状況でどう返せばいいか、全く見当がつかない。
内心で冷や冷やしながらおおよそ受け取れない変化球をやり過ごす。
「別に、一緒にいれるならずっと見てるだけでよかった。こんなつもりなかったですけど、もういいです。伝えたくなっちゃいました。以上です」
なんとも投げやりな打ち明け話だった。一方的に言い終わると「出発してください」と春田が促すので仕方なくそろそろとアクセルを踏む。
動揺する恵知をよそに、春田は口を引き結んで言及はしないとばかりに深くシートに沈んだ。
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