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10.夜更けの秘密
二月に入ると本格的に各店舗バレンタイン準備に取り掛かる。
こうしてどの職種よりも各季節のイベントをいちいち一球入魂しているのに誰よりも満喫できないのがこの業態の悲しい性である。
世間が行事を楽しむ時が一番忙しいので家族サービスができないと嘆いて辞めていく社員も多い。
とっくの昔にそんな悲観など捨て去った恵知としてはどんな盛大な祝日がやって来ようとどうだって良い。クリスマスお正月バレンタイン、全ては365日の中にあるただの一日に過ぎない。
もしかしたら小惑星が地球へ直撃する日にだって出勤して売上表を確認しているとさえ思う、他にただやることがないというだけの理由で。
地球滅亡の日に人がお金を出して買うものとは一体何だろうか。
今度覚えていたら春田にも聞いてみよう。
退勤後、アパートに帰ってから備品庫の鍵がポケットに入っていることに気が付いた。
備品なんて必要分は事務所に保管してあるし全然重要じゃない。
よっぽど朝まで使わないだろうから明日でいいやと思う反面、もしかして万が一大量の両面テープが夜中に必要だったとして、使い果たしてしまったら鍵を開けなきゃいけない瞬間があるかもしれない、と気がかりで結局靴を履いたのは夜十一時前だった。
こういう時ってなんだかんだで俺長男だよな、なんてくらだない言い訳をしながら店に向かう。
誰にも見つからず夜の事務所にそっと鍵を置いたら、冷たい倉庫を通って裏から外に出る。
山のように積み上がる段ボールの後ろでゴソゴソ動くその人影を誰か認識した瞬間、カッと頭に血が上ってドスの効いた声を腹の底から出した。
「おい!」
びくっと震え上がった背中がストップウォッチを止めたように静止する。
「こんな時間にそこで何やってんだ」
ゆっくりと、観念したように振り返るのは私服姿に着替えた春田だった。
「お前、今日七時半に上がってたよな」
「は、はい…」
自覚が相当あるのだろう、もう泣きそうだ。
「はいじゃねえ。何やってたかって聞いてんだよ。答えろ」
「そ、倉庫、整理…」
「馬鹿かこの野郎!」
胸ぐらを掴みかからん勢いで恵知は詰め寄る。春田はジリジリ後ずさったが、壁が行く手を阻む。
「タイムカード切った後にコソコソ十二時まで倉庫整理だと? ふざけんなてめえ殺すぞ」
「ひっ…」
「労基はもうカメラまでチェックするからな、お前のそんな挙動なんてお見通しなんだよ。どっかに一発でも映ればえらいことになるんだぞ。バレたらどうなるかわかってんのか? 首が飛ぶのはぺーペーのお前じゃねえ、店舗責任者の俺なんだよ!」
隅に追い込んで春田の耳元あたりの内壁に右拳を力任せに打ち付ける。頑丈なコンクリートの硬度が薄い皮を切り裂き骨を響かせる。
運悪くも、ちょうどセメントのほころびに肉をめり込ませてしまい、血がにじんだ。
春田は恐怖で小刻みに震えている。
ああこういうのなんていうんだっけ、そうだ壁ドンだ。
「ご、ごめんなさ…」
「てめえこれが初めてじゃねえな。そうだろ」
「は、はい……」
自白しなければ防犯室に引きずり込んで一日一日カメラを再生して問い詰めるだけだったが、春田は正直に頷いた。
そりゃあ今まで全ての業務がどこも滞りなく円滑に進んでいたわけだった。春田を最初に注意した後、恵知が見ている前ではこの数カ月でだいぶ改善していたから楽観的になってしまっていた。
自分の浅はかさを思い知らされるが、いやいや面倒なことはなすりつけ合う現場をずっと見慣れててきた中で誰がこんな根回しに勘づくだろうか。
鶴の恩返しのような涙ぐましい一人の犠牲の上に成り立っていただなんて。
「仕事に捉われすぎるなって俺、最初言ったよな? お前のその働き方、マジで過労死するよ。本当に何十年かに一度出るんだよ。出たらシャレになんねえんだよ、自分がどんだけ恐ろしいことしてんのかわかってんの?」
春田は言葉を返す代わりに震えながら、恐怖で溢れ出る涙を拭き取った。
「そんなに生きる時間削ってでしか売り上げらんねえなんて、お前そもそも向いてねえよ。やめちまえ、そんな仕事!」
うえーんと、ついに声をあげて春田は泣き出した。
そんな子供みたいな泣き方で通用するかと恵知がすごむ。
「明日から三日間、有給ぶち込むから。お前一切出勤すんな。九二時間布団から出るな。わかったか」
「はい…」
壁から拳を剥がすと、初めてやっとじんじんした。
春田を振り返らずに駐車場に向かう。
右手を振ってみたけれどもちろんどこにも痛みは飛ぶことがない。
煙草に火をつけても闇に巻かれた感情は落ち着くどころか更にどす黒く渦巻くだけで、収まりの悪いそれらを持て余し車を見つける前に今度は力任せに外壁を蹴りつけた。
「くそっ」
自分の首なんてどうだっていい、もう半分捨てたような人生だ、煮ようが焼こうが好きにしてくれて構わない。
ただ、なんの疑いもなく過労を平然とやっていた部下に、そして今まで気づかなかった自分に猛然と腹が立った。
こんな風に一日の始まりと終わりも区別をつけられず働きながら歳を重ねちゃ絶対にダメだ。
春田にはまだたくさんの未来がある。
楽しく生きる権利がある。
決して自分みたいにはなって欲しくない。
張り出したてのポスターのように四隅の見える、生活感のかけらもないワンルームマンションに帰る理由すら探さなくてはいけない、こんな人生にはさせたくない。
それは憧れさせてしまった責任感なのかわからないけれど、とにかくもう心を壊すのも体を痛めるのも個人の自由だとは、春田に対しては思えない恵知がいた。
尻ポケットから会社携帯を引き出し、加川の番号を見つけると、発信ボタンを押す。
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