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13.車から見送る背中
それから特に気の利いた会話もできないまま春田のアパートの前に帰ってきた。専用の敷地であろう広い駐車スペースに一旦車を停車させる。
「今日は、ありがとうございました」
「お、おう。こちらこそ」
一応お礼を口にする春田はまだ口角をへの字に曲げている。
エントランスへと遠ざかる背中を見送りながらこれは、明日から移動までの仕事が相当気まずくなるぞと覚悟する。
そして深くため息を吐くとタバコを一本取り出し、フィルターをつまんだまま指で転がした。
山の天気のようによく変わる春田の表情が、走馬灯で蘇る。
一回りある年の差だろうか、春田といるとやたら昔の感情に浸ったり、何かと感傷的になってしまっていた。
春田のことを可愛いがっていたのは事実だ。
放っておけないとも思っていた。
だからと言って、深入りするなと自制しながらも、ついついここまできてしまったのは本当にただの親心だったのか。
点いたらいいなくらいのやる気のなさでライターをいたずらに何度か擦っているとさっき消えた場所からもう一度春田が姿を見せた。
春田が焦ったようにずんずん近づいてきたので、とりとめのない自問を蹴散らした。
運転席の窓が爪でコツ、と叩かれる。
「おお、忘れ物?」
窓を下ろすと上半身が滑り込んできて、首元に腕がするっと巻きついた。
続けてぶつかるように唇が合わさる。
突然のキス。
長いまつげが、ぼやけて視界に映っていた。
柔軟剤でも香水でもない、春田自身の匂いが鼻腔をくすぐった。
その一瞬は熱い飴を引き延ばしたようにどこまでも続く長さに感じて、記憶に新しい情報が思い出される。脳が時間を錯覚させている。
「びっくりしましたか」
唇を引き剥がしながら、春田は低い声で聞いた。
「…めちゃくちゃ」
正直に答えた。
「じゃあいいや」
幾分スッキリしたように肩を軽く上下させると、早足で今度こそ帰っていく。
開け放たれた窓から頬を指す、二月の冷たい風にも流されない春田の香りが、まだ鼻の奥に残っていた。
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