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2.新人にしては
大人になるとは子供を産み育てることでも歳を取ることでもなく、つまるところ不感症になることだと恵知は定義する。
学生の頃にはくっきりと隔たれていた好きと嫌いの境界線がだんだん曖昧になり、中心からどちら側もグレーに変化した果てには無が待っている。
おそらく日本に住まうなら一度は利用したことがあるであろう、今や北海道から最果ての石垣島まで展開する国内最大級大手、総合小売業の自社マスコットキャラクター『ラッキ』が恵知は入社当時大嫌いだった。
入口から始まり通路、商品ポップ、トイレに至るまで、どこにでも大して可愛くもないラッコが付いて回る。
駄菓子からブランドバッグまでと、商品数が多いことを売りにしている自社だが、よくよく見るとそこらじゅう散りばめられるラッコの数の方が絶対に異様だ。最初の頃はラッキに追いかけられる悪夢によくうなされた。
それも十二年経つといつしか、何とも思わなくなった。
今ではラッキくんと敬称まで付けることすら抵抗がない。
春田の満ち溢れた新鮮なパワーが強すぎて、つられてそんな私情を馳せそうになった恵知は己を引き説明を続ける。
「で、店内は見たままでざっとこんな感じ。うちは春田の前いた浜津店みたいに街中にないから、メインの客層はファミリーってこと常に意識して。そんで規模は浜津の二倍あるから、広過ぎて最初は慣れないと思うけどメンテナンスは特に気をつけて。定番商品欠品させたら即死刑な」
物騒な単語を出すと元々いい姿勢がさらに天井に伸びて、糸にでも吊られたみたいになった。
「が、頑張ります…!」
「集客で言うとうち、断然春田んとこの消耗が最重要カテゴリーだから、責任は重大だよ」
「は、はい!」
別に脅すつもりはないが、最初は肝心。
「以上がざっくりの現状報告だったんだけど、あとなんか質問ある?」
「はいっ」
横断歩道を渡る小学生のごとくシュッと右腕が上がる。
「どうぞ」
「柳瀬店長のご趣味は」
大真面目な顔で質問され、恵知は呆れる。
「それ聞いてなんか店舗運営に関係ある?」
「全くありません! でも、聞いたら真似したいです!」
この会話の流れでいきなりお見合い開始直後の様な質問。もしかして相当天然か?
かまぼこ型になった瞳の下で涙袋がわくわくを表してこんもり盛り上がっていた。
「特にないけど、強いて言うならひとり酒」
「わぁああかっこいい! 何飲まれるんですか?」
「…ビールとウイスキー」
「す…すごい! どっちも僕が苦手なやつだ…。早く飲めるようにならなきゃ!」
本当はこいつ馬鹿にしてないか? と疑うようなあからさまなリアクションに閉口する。
さっきから終始こんな感じなので無自覚ななんとか人格障害でなければおそらく本気でそう思っていると捉えてよいのだろう。
しなびたおっさん捕まえておべっかの嵐とは、随分物好きのようだ。
「とにかく、三年目なんだし基本的なことはもうできてると思って話すからな。でもわからないことがあればすぐに聞けよ。あと商材扱ってる業者、関東とはだいぶ違うから早めに覚えて」
「はい、もう大体覚えました」
返ってきた答えに恵知は若干驚く。
「え、着任前から?」
「は、はい。リストは貰っていたので」
と頷くので抜き打ちクイズタイム。
「トイレットペーパー」
「さ、サンコー商事、イッケイ」
「洗剤」
「イハラコーポレーション、シミズヤ」
「レベル2。ポケットティッシュ」
「それも、サンコー商事」
「の?」
「担当違いの豊倉さん」
「おお、合格」
「やったあ」
手を叩いて春田は飛び上がる。
女子高生かよと鼻じろみたくなるも、着任前から取り扱う商品と三十社はある担当業者をきっちり覚えてくるとは結構頑張ってる証拠だ。
その点は素直に評価できた。
「じゃ、早速棚のメンテからよろしく」
「はいっ。行ってきます」
パタパタと小走りで事務所を出て行く春田の世界だけ時間が2倍速で廻っているようだ。
何かを彷彿とさせるな…としばらく考えたら、昔よくねじ切れるまで引いて遊んだ車のおもちゃなんだった。
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