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3.朝早く
十二月は国道が激混みするからと大事を取り早めに家を出たら、思いの外さっと着いて拍子抜けする。
無理もない。家から十分の距離で道路状況になど大して影響なんてされるわけがないのだ。
それでも名の知れた車種へ毎度買い替えて、わざわざ車通勤にこだわるのは、もはや意地でしかない。
何か一つでも好きだったものを維持していないと、行く末には本当にロボットになってしまいそうで。
事務所が朝の慌ただしい活気に満ちる前、二畳ほどしかない喫煙所で電気も点けず煙草をふかしていると五十代経理担当と二十代衣服担当のパートさんが揃って出勤してくるところだった。
「顔もイケメンやし、仕事頑張ってるし、めっちゃええ感じやんな」
「わかりますっ! 教え方もめっちゃわかりやすいし、色々聞いても嫌な顔絶対せーへんし、何よりインカムの反応が早い!」
名前が出ないまでも、誰のことかは言わずと知れる。
春田が着任して一ヶ月、周りのパートさんたちの反応はすこぶる良い。
確かに解決能力と頼り甲斐もあって浅い社歴にしてはとても信頼できる存在だといえる。
反面、中番と遅番にまわる経験のそこそこ長い社員まで春田の判断を仰いでいることには閉口してしまうが。
「そうそうそれほんま助かるよなー。あんなにかっこええのに感じいいってもうなんなん天使? って感じ。あっそれで昨日な、後ろの髪の毛ピヨって寝癖ついててん。めっちゃ可愛かったで」
「きゃああそんなギャップ萌え、反則すぎや! 見たかったですー!」
「やろやろー! 教えたら恥ずかしそうに直してて、あれはやばいわ」
二人の背景には小花が飛んでいて、女とは不思議な生き物だよなあと恵知は遠い目で火を消す。
母親だろうが下手すると孫までいようが、幾つになっても異性に対しては制服姿の女子になってどの年代もみんなで一丸となってはしゃぐ。
今彼女たちにうちわとサイリウムペンライトを持たせたらたちまち事務所がライブ会場になるんじゃないかと想像して恵知はげっそりする。
「あーあ、右横の誰かさんもあれくらいハキハキしててくれてたらええのに。デスクにずっと座ってる日なんか、事務所がどんよりするねんな」
そっちも誰のことかわかってしまい、今度は一気に喫煙室から出ずらくなる。
うーん、影が刺していますよお二人さん。
「中谷さんは経理担当だからずっと隣座ってへんとあかんですもんね」
「せやねんな。見てるとなんかさー、背中叩きたくなってまうんよな。もうシャキッとせんかーい! って」
「あはは。わかりみやわー」
うーん、ごもっとも。って自分が言う台詞じゃないか。
恵知はいよいよ個室から出ずらくなって、もう一本吸うべきかどうか考える。ひとまず会社携帯で昨日の売り上げを確認すれば前年比より10パーセントも上がっていた。
恵知ははたと顔を上げた。
「そういえば春田くん、彼女おらへんゆーとったで。狙ってもうたら? 青木ちゃん歳近いやん」
「えー無理です、倍率高すぎや」
「もうすぐクリスマスなんやし映画とか誘ったらええやん。あ、クリスマスといえばこの前な…」
話が切り替わったところで、恵知は「今だ」と何食わぬ顔をして喫煙所を出た。
一瞬二人がギクリと顔を見合わせたが、何も聞こえていなかったふりの挨拶をしてさっさとデスクのパソコンを立ち上げた。
売り上げ明細の画面を開くともう外野の声は聞こえない。思った通り、上乗せ部分はきっちり春田の担当する消耗品だった。
そこへタイミングよく春田が出勤する。
「春田。ちょいちょい」
「あ、はいっ」
いつもの通り、朝から元気いっぱいだった。
歩く姿にオノマトペをつけるとすると、春田にはぴょこぴょこが一番似合う。
足を踏み出すリズムに乗って左右に若干肩がが揺れるのだ。それでいて現場での判断力には男気があり、可愛くなりすぎないのが女子たちから絶妙にモテる所以なのだろう。
無意識にタイムカードを切ってこちらに来る間、髪の毛に跳ねがないかをつい確認してしまいそうになるが、いやいやなんでだよとすぐに押しとどめ仕事モードに頭を切り替える。
「春田んとこの売り上げ、伸びてるな。一ヶ月ですごいじゃん」
「ありがとうございますっ」
朝一から褒められるとは思ってなかったようで、壮大に破顔する。
「どこに気をつけて売り場作った?」
「あ、えっと、全商品のポップの見直しをしました。結構商品にかぶっちゃったり逆に小さくて目立たないのとかちらほらあったので、サイズと位置を直して」
「おおお。いいね」
店が変わったら手始めに爆納品して、売り場に置けるだけものを置いて売り上げを取ろうとする単細胞が何年経ってもいる中で、ポップの見直しからまず手を付けるとは中々センスがいい。
確実に今ある商品をハケさせるだけでこれだけ売り上げを伸ばせるなら今後に期待大だ。
「あと競合店徹底的に回って値段確認しました。ティッシュペーパーはヤマトスーパーに二〇円も負けてたからすぐ値下げしました」
「もう近隣店舗チェックしてきたのか?」
「はい、着任一日目に回りました」
「来週棚替えするから、春田んとこのエリアも店頭で広げてやるよ。エスカレーター上がって、左んとこな。好きに使いな」
「わ、ありがたき幸せ!」
「でも、重箱の隅つついていい?」
担当者にはある程度好きにさせておくのが恵知の流儀であるが、ここまで見せられるとつい欲が出てしまう。
「もちろんです!」
「ここのスポットの展開な」
パソコン画面で見取り図を引き出し、注目商品を陳列する大きい棚を指す。
「今はホールドじゃなくてエースにして」
「え? 値段高いのにですか? それに、定番ではホールドが売り上げも固いですよね」
「有名な若手俳優いるじゃん? なんだっけな、最近推理もんのドラマ出てる、なんとかまさなんとか」
「店長ー。むしろなんでそこでまさだけ出るんか謎やわ。志田雅史いうねん」
横で静かに話を見守っていた中谷さんが助け船を出してくれる。
「あ、そうそうその俳優。新しいCM一昨日から流れてるから、値段高くても今月来月は高くてもエースのが断然売り上がるぞ」
「なるほど…! さ、さすがです!」
拳を胸元でぎゅっと握る仕草はピッチャーの投球前にどこか似ている。
「御指南いただきありがとうございました! 朝礼までのあと三十分で早速変えてきますっ」
と、事務所を出て行く春田を一旦見届けて後から追いかける。
わざと誰もいない階段の入り口あたりを狙って引き止めようとしたのに、見上げると春田はもう登りきろうとしている。
「おーい春田ぁー」
下から呼びかけながら階段を上がる。
本当はこれからが一番言いたいことだった。
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