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「ふぅ…。」
ひと仕事終えた。そんな顔をした敦が椅子に座る。小さな丸椅子に背もたれが無いことを忘れていたのか、猫背のまま後ろに転がりかける様子に思わず吹き出してしまった。
「わっ笑わないでよ…背もたれあるとおもうじゃん?」
「は、はい…ふふ。」
恥ずかしそうにテーブル上の帽子の鍔を何度も擦る敦。
しばらく沈黙が降りた。
話すことがある。お互いに承知しているのに、切り出せない。互いに喉の先まで出かかっている言葉の行き先を尋ねあぐむ。
ごくりと喉を鳴らしたのはどちらだったか。かかとを引いた乙が椅子に座り直した。因果を含むべきは自分だと。
「会社を辞めようと思っていて。」
「……そう。」
乙が思っていた何倍も敦は冷静だった。薄く開いた静かな瞳。表情には動揺のかけらもない。そのことが少しだけ自分の心に傷をつけ、同時に自らの性格の悪さを自覚する。
「いいと思うよ、俺は。」
「あの、理由、とか…は。」
自分で何を言っているんだろうと顔に熱が集中する。これでは話を聞いてほしい面倒臭い女そのもそなのに。
敦は笑わなかった。困ったようにも、安心させるようにも笑わずにただ視線を乙へと向けた。
引き留める気がないんだ。それを理解した時、乙は目の前が揺さぶられる感覚を覚える。引き留められたいわけじゃない、ただ話を聞いて、あわよくば…同情してほしかった。それでも自分が思っている以上に敦に縋っていたことに気付いてしまった。
「うん、と…話したいことは全部聞くよ。もちろん。でも話したくないことは聞かない。」
ごくりと喉を鳴らしたのは、やはり乙の方だった。
胸の中心から大地が隆起するような熱が込み上げてくる。
「聞いてほしくて…。」
「うん。」
「古口さんに、言われて。…私が、柚木さんに残業減らしてもらってるって。」
「うん? なんで。」
「前に出勤が一緒になった時、見られていたみたいで。それで…そういう関係だって、思われたみたいで。」
ガタタッ。
椅子が身を捩る。初めて表情を変えた敦がそこにいた。引きつった顔、見開いた目、首の付け根から頬、額にかけて徐々に朱を帯びていく。
「な、あ、あの人…!! いや、いやいやいやうんちょっ、ちょっと待ってね。いやあの変なことは決して、決して!! 考えてないから。うん…。」
そういう雰囲気でなければ、そんな話でもない。何も問題はない。十分に理解している。
…けれど、女の子とそんな噂が立ったことなんて初めての敦にはどう対応したらよいのか、少なくとも平然としてはいられない。加賀美のように悪意だか無邪気だか判別のつかない不特定多数の情報に巻き込まれる人生を送っているわけではないのだ。むしろ、柚木敦にカノジョなんているわけがない。そんな印象の方が強いタイプ。
平然と口にできるのは、乙がそれなりにモテてきたからなのか、そんな余裕がないからなのか、半々だろうか。事実、今は乙が感情的にも沈んでいるわけだし、敦が過剰反応をすることで乙に嫌悪感を与えてしまう可能性は大だと、敦は自分の脳を殴りつけて表情筋と顔面の火照りを鎮火させようと努力する。
その時、扉をノックする音が室内に響いた。
上昇する体温のままに、誤魔化しも含めて敦が扉へ向かう。
その様子を眺めていた乙はあまりに初心すぎる敦の反応に色々と察してしまうと同時に恐らく自分を安心させようと慌てる姿にまた少し笑ってしまう。
「山寺ちゃん、はい、カフェオレ。」
「えっ。」
ほどなく戻った敦がテーブルに置いたカフェオレを乙はじっと凝視する。敦の手には缶のおしるこ。2,3回振って、敦は躊躇なくタブを上に引く。
「あちっ。」
「あの、これ…。」
「大丈夫。加賀美さんのおごりだから。」
なんだかものすごいことを言っている気がする…。
「でも。」
「後でお礼言っておけばいいから。さすがに130円くらいで怒らないよ、山寺ちゃんには…。」
すいっと視線を逸らせた敦はそれ以上の言葉を続けず、話を戻す。
「で、だけど。俺には残業をどうこうする権利はないし、それで古口さんが文句を言うならお門違い? だよ。山寺ちゃんは悪くないし。」
「それは、わかってるんですけど…でも。」
「何か言われた?」
額を抑えた敦が目を細める。
敦自身、古口のことが好きではないため、中立を心がけようとしても無駄といえば無駄だ。乙と古口ならどちらに転がっても乙の肩を持つだろうか。
「でもわたしの残業時間が少ないのは、本当だし…。やっぱり変、じゃないですか。正社員なのに派遣の人より早く帰るって、角が立つじゃないですか…。」
作業着の袖で包んだカフェオレの缶を手の中で転がして、眉根を下げる乙を見て、敦は黙る。
窓の外に広がる曇天と電線に留まるカラスがあの日の朝をおぼろげに描く。
「それは違う。」
力強い否定が乙の心に楔を刺す。
「残業時間が短いことを変とか角が立つとか、それは違う。それはただ古口さんが妬んでるだけで、山寺ちゃんが悪いんじゃないし、ましてや残業することが良いことって考えるのも違うよ。」
おしるこの缶のタブを捻ってテーブル上で弄ぶ。
古口のやつ、2年目の年下の子に何を言っているんだ。頭の中で係長に報告する内容をまとめながら努めて冷静に頭を回す。おしるこの甘みが心を落ち着かせてくれる。
「柚木さんは思わない、ですか。わたしが、他の人より残業短いの、変とか。」
「俺は残業しなくていいなら早く帰った方がいいと思う派だから。ええと、『それに越したことはない』だっけ…。それに残業が短いのは…あの、ちょっと厳しいこと言ってもいい?」
「…はい。」
緊張で敦の手のひらも汗をかく。本当に、本当に大丈夫か? ぎゃんぎゃん泣かれて係長と加賀美さんにお叱りを受けたりしないだろうか。
口腔内の肉を噛みながらオブラートをどっさり用意する。
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