茶腹も一時

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茶腹も一時

「別れましょう。」 「は?」 ダダダダーン、と。効果音をつけるならベートーヴェンの『運命』の冒頭。 といっても俺は音楽に詳しいわけじゃない。よって、特別ベートーヴェンが好きなわけでもない。 別れを切り出した俺がこんな感想を抱くのだから、相手はそれを上回る衝撃を受けただろう。 …いや、もしかしたら大したことないかもしれないけど。 実際、この人はいつだって穏やかで冷静で、動揺してる姿なんて見たことないから。だから、既に、地中海より深く、マザー牧場より広い懐で現実を受け入れてしまっているのかもしれない。 「なんで?急に、どうしたの。」 「もう、なんか、疲れちゃったんですよ。加賀美(かがみ)さんと一緒にいるの。」 「それじゃあわからないよ。どうして?俺のこと、嫌いになっちゃったの?」 2メートル弱離れていたはずの距離を加賀美さんは長い足で簡単に埋めて俺の顔を覗き込む。いつ見ても美しい顔立ちと似合い過ぎる銀縁の眼鏡が現金に俺の鼓動を速めた。 予想外だったのは、加賀美さんが追求してきたことだ。 さきほど言った通り、加賀美さんはいつも冷静でザ・大人。天然なところはあるけれど、適切な距離感をわきまえており、基本的に物事に執着しない人…だと俺は思っていた。 けれど、目の前の美丈夫が困惑していることは誰の目にも明らかだ。ぶっちゃけ、罪悪感が煽られる。 ハの字に寄った眉。懇願の入り混じる黒い瞳。魅惑の唇のわずかな虚空。 整えられた女爪の白い指先が頬に触れる直前に、俺は加賀美さんから一歩離れる。 危ない危ない…顔に流されるところだった。 「…柚木(ゆぎ)君。俺、何かしちゃったかな…?」 「いえ、特別なことは何も…ただ、もう、加賀美さんのこと、好きじゃないです。」 …それが俺、柚木(ゆぎ)(あつし)が加賀美さんに言った最後の言葉だった。 嫌いです。そう言ってしまえば簡単なのに、できなかった。 それは、嫌いという言葉の『拒絶』という効果をよくよく知っていたからであり、それを自分の口から引っ張り出すこと自体を恐れる自分がいたからだ。 俺は臆病だった。 別れを切り出すくせ、決定的な言葉は自分で言いたくない卑怯者だと気付いていた。 最低だ。
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