隗より始めよ

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今日ほど出勤が嫌だと思った日はない。 始業より30分以上早くついて食堂でお茶を飲みながらダラダラ過ごす朝のルーティーンを急遽取り止めて、今日は始業開始ギリギリで出勤して着替える。 理由は、朝の食堂は加賀美さんに会う可能性が二番目に高いから。 俺が食堂でお茶を飲んでいると平日出勤の日はほぼ毎日朝顔を合わせて雑談して、それから現場へ向かうのだ。加賀美さんが来ない日は何かあったんじゃないかとそわそわしてみたり、同じく食堂にいる噂話&イケメン大好きおばさんズの声に聞き耳立てて情報収集してみたり。 しかし今日に至っては加賀美さんの情報全てをシャットアウトすると固く心に誓ったんだ俺は。 朝起きてゆっくり過ごせるのはいいけれど、いつもは全然人のいない更衣室に同じくギリギリで出勤してきた人たちが大量に詰め込まれてむさくるしい。これが嫌なんだ。 始業開始10分前に流れるモノラルな無駄に清々しい音楽。入社当時から昭和臭くて朝が嫌いな俺の神経を逆撫でする。特に偏頭痛が酷い日なんかは、この音楽やめろ馬鹿野郎!!と怒鳴りたくなるレベルの清々しさ。 ため息をつきながら現場に直行する。 朝のお茶タイムが無いと、これから仕事だーっていう心構えができなくて結構辛いな。しかも有休使って3連休からの出勤。帰りたい。 「おはざーす…」 「お!」 無駄に若者ぶるくせに自分がおっさんであることを強調する、班長の高屋(たかや)さん。 俺の顔を見て開口一番、「お!」て。餅を喉に詰まらせた人みたいになってますけど。って、そんなプチ現実逃避はやめて現実に戻ろう。嫌な予感しかしないけど。 「なんですか」 手をまっすぐそらせて口に持ってくるというわかりやすすぎる『ひそひそ話モーション』もしくは『なんでだろう』の半分バージョンで高屋さんは俺にそそくさと身を寄せてきた。 「柚木っちのさぁ仲良い先輩いるじゃん。イケメンの。加賀美だっけ?」 「はい?」 耳を疑った。加賀美さんの話を俺に吹っ掛けてくるとしたら主に現場の女性陣で、男性陣は興味どころか関心すらないと思っていたからだ。 そりゃ、女性陣はイケメンの話を聞きたがっても不思議じゃないが、男がイケメンの話にがっつくわけない。しかも俺より10歳以上年上の既婚者ばかりだし。女性陣も全員既婚者だけど。 …朝方、加賀美さん絡みの情報は全部シャットアウトすると誓ったばかりなのに。 「ほらいるじゃん、総務の」 「ええはい…それは、わかりますけど。なんですか?」 なんで班長の口から加賀美さんの名前が出るんだ!?文句か娘さんの惚気話しかしないあの班長だぞ?俳優の名前が90年代までで止まってるあの班長だぞ? でも気になるものは気になるから、一応耳を傾ける。 「それがさぁ急に雰囲気変わったとか昨日、超ウワサになって、柚木っち休みだったから知らないだろうけど」 「へぇ~変わったって、どんな風に?」 今の一幕で察した。これは班長が持ってきた話じゃないな。 班長は係内の人員ならともかく他部署の人間の雰囲気をいちいち言及する人じゃない。色恋以外で男が男の話をネタにしても全く盛り上がらないし、男女の色恋の話題になっても最後は絶対シモに帰結するのだから。 「あれ柚木っち何にも知らないの?なんか把握してると思ってたんだけど…」 「おはようございまーす、柚木っち」 「おはざーす」 首をかしげる高屋さんのわきから顔を出したのは古口(ふるくち)さん。よく高屋さんとつるんでる先輩。仕事以外では基本下ネタしか頭にない。 「古口くん、柚木っちなんも知らないって」 「えー?もっぱら女絡みって言われてますけど」 「失恋で雰囲気が変わるとは、イケメン王子もまだまだお子ちゃまだねぇ」 何なんだよ一体…。 俺を置いて話し込んでしまった二人に胡乱な目を向けるもまったく伝わっていない。 雰囲気変わったって、どんな風にだよ。キラキラオーラを絶やさないミステリアス眼鏡。通称イケメン王子が失恋でしょぼくれてるって?それが本当なら原因は俺でーす、なんて言うわけない。 でも、本当に本当なら少しだけ見てみたい気もする。先に音を上げたのは俺であって加賀美さんは俺のこと、好きだった…と思うし。いやでもあの人が失恋くらいで仕事の態度変わるか?この二人と違って気分に左右される人じゃないと思うんだけどなぁ…。 「でもあのイケメン王子、今まで彼女の噂一つなかったよね。今になって急に?」 「よく女たちの情報網掻い潜ってたよな。3班の中条なんて彼女と手ぇ繋いで歩いてんの、次の日には知れ渡ってたぜ?」 「あー、あのちょっとふくよかな……柚木っち知ってる?3班の中条君。おーい柚木っち」 「え、いや知んないっすけど…」 「忘年会で見ると思うけど、こうヒョロっとしてて面長な…」 二人は俺が何も知らないと見ると加賀美さんへの興味を失ったようで、別の話題にうつっていった。古口さんの様子を見るに、古口さんが持ってきた話でもなさそうだ。どうせ係内の女性陣が誇張して話したに違いない。それでもって俺に探りを入れるよう仕向けたんだ。 僅かな違和感から目をそらして、俺はそう思うことにした。
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