紺屋の白袴

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「残業っていっても、目標の未達を補填するわけだから、時間内で一番生産力のある最低限の人数でってことになってる。だから、その…残業が長いのは、役に立つからで、生産力の効率を考えた采配、なんだよね。」 暗に、言いたいことを理解して唇を噛む。乙の残業時間が短いのは、女だからとか贔屓とかではなく、単に『使えないから』。 当然といえば、当然。仕事のできない人間に残業手当を使用したくはないだろう。今のご時世、お金のために積極的に残業をしたがる人もいる。 「山寺ちゃんはまだ2年目だから、覚えてないことも多いし。俺みたいなことにならないうちに帰っておいた方が…じゃなくて、気にしなくても…でもなくって…ええと…。」 気にするなと言われて、わかりましたと納得できる人間ならこんな事態にはならないし、俺みたいに~とかめちゃくちゃ嫌味っぽいし…。ああもうどうしたらいいんだよ。なにが正解でなんて言ったら満足されるんだ? これだから俺はこういう相談事とか向いてないっていうのに。 「ありがとうございます。」 「え。」 「…ありがとうございます。」 「あ、はぁ…どういたしまして?」 敦は面食らって首を傾げる。今のどこにお礼を言われる要素があったのだろうか。 まあ、本人が満足しているならいいか。 生来、人の話を聞いて的確な言葉をかけられるほど器用でなければ達弁でもない敦は考えることをやめた。 「ええっと、それで、まあ。仕事辞めるなら係長か、言いづらいなら俺が加賀美さんに話付けることもできる、から。俺にはそんくらいしかできないんだけど…。」 口に出してから、しまった。と頭を抱える場面が生きてきた中で何度もあった。それでも敦はまったく学ばずに何度も失敗を繰り返す。今回の場合、よく理解できないままに乙がお礼を口にしたため、敦自身が納得するためにせめて自分の理解の及ぶ範囲で支援をしようとした結果、余計なことを口走った。 いい年頃になってから口に出す前に脳で精査を挟むようにしていたが、焦るとすぐにボロが出る。だからこそ余計に、加賀美の存在は敦の中で大きいものだった。 口元を引きつらせる敦の顔を見て乙が真顔で口を開く。 「柚木さんはわたしが辞めるってなっても、引き留めたり、しないんですよね。」 空になったおしるこの缶を見つめる乙。ぬるくなったカフェオレは未開封のままだ。 辞めたい旨を話した時、敦はいいと思うとしか言わなかった。理由も聞かずにただ頷いた。決して引き留めて懇願してほしいわけではない。ただ、淡々とした態度に、飲み込み切れないわだかまりのようなものが喉につっかえて不愉快なだけ。 「そう、だね。まあ…やめてほしくないとは思うよ。」 けど。と、続かない言葉。 いい人ぶりたいわけじゃない。部屋に入る前、何度も自分に言い聞かせた言葉。優しい言葉をかけるのは簡単で、その方が相手にとっても自分にとっても楽な選択肢。うんうん、そうだよね、と同調して同情して曖昧な言葉で濁して完結させる。係長もきっとそっちの方向性で『お願いね』なんて言ったのだろう。 幸せになるための努力を諦めるな。 私が決めた。進むべき道は常に私の目の前にある。 俺の大好きなガーネット・カーバンクルの言葉。幼いながらにささくれ立った心に深く突き刺さった名言の数々。 …俺はこの言葉を指針に生きてきた。なんて言ったら、山寺ちゃんくらいの若い女の子には、マニアックなアニオタ認定されてドン引き確定だろうから、言わないけど。 「辞めるか続けるか、どっちが山寺ちゃんの今後にとっての幸せなのか俺にはわからないから。結局、俺が決めることじゃないし。止められるものでもないし。」 責任逃れ、といえばその通りなのだろう。けれど事実、山寺ちゃんの人生は俺には何の関係もないことだ。 転職したら今より充実した生活になるかどうか、そんなことは俺にだってわからない。今より最悪な状況になったところで、どうして引き留めてくれなかったのかと追及されても困る。 「あ、だけど。どっちにしても俺は応援してるよ、影ながら。…続けるならそれ相応に俺も、山寺ちゃんがこれ以上嫌な思いしないように、考えてみるから。」 違う。だからいい人ぶりたいんじゃない。 面倒臭いだけだ。俺の仕事じゃない、こんなのは。ただ、そう思っているだけだ。 俺の仕事は現場にあって、今だって機械は動き続けている。俺の能力が必要とされているんだと思うためにも俺は働かなくてはいけない。決して、後輩のお悩み相談室が仕事じゃないんだ。いわばボランティアの一環。正直、早々に切り上げて現場に戻りたい。 「柚木さんは…すごく、優しいですよね。」 「そうかな。俺なんかより、加賀美さんとかの方が、親身になってくれると、思うけど。」 「でもそれは『仕事として』ですよね。」 コンマ数秒の切り返しに猫背がピンと張る。左肘の関節部を右腕で掴んでさする乙は顔を逸らしながら、一度唇を引き結ぶ。 「柚木さんは、下手に優しいこと、言わないから…。」 敦は内心、顔を顰めた。 よく言われる。ド正論ばっかりで傷つくって。 他人行儀ではいられても、言葉だけは正直になってしまう敦は『受け流す』ことが苦手だった。相手からの相談事に真剣に向き合おうとすると、どうしても第三者から見た正論を無意識に翳してしまう。だから、嫌われる。 敦だって相手を傷つけたいわけではないのだが、いかんせん敦に用意できるオブラートは芸術的なまでに薄かった。 経験則からして、適当に返事をすることを生半可に覚えたが、半端な返事をすれば「無駄だった」という顔をされる。であっても、親身に話を聞いて言葉を口にしようものなら「そういうことじゃない」「傷ついた」そんな顔をされるのだから、ままならないものである。 柚木君は言葉を選べないよね。 これは加賀美に言われて傷ついた言葉の歴代5指に入る言葉だ。 「あの、わたし…もうちょっと考えてみます。」 「え。」 「こんなことで辞めるなんてって言われるかと思ったけど…柚木さんのおかげです。」 「う、うん?」 なんとなく最初から最後までかみ合っていないような違和感を抱えつつ、乙の中で何らかの折り合いがついたのならよかったのではないか。そう納得しようと敦は首を斜めに頷いた。 これからも何かあったら相談に乗るよ、なんて心にもないことは言わない。二度と俺には相談しないでほしい、とは言いたいけど。 「あ、じゃあ…俺、係長んとこ行ってくる。あ、カフェオレ……今のうちに片付けておいた方がいいかも。いちおう休憩ではないから、まあ、お目こぼし…いただけるとは思うけど。」 さすがに、俺が片付けるよ、とは言えなかった。女の子が口付けた缶を人知れないところに持っていく行為は憚られる。気持ち悪いと思われるだろうから。加賀美のように容姿端麗な男であれば品行方正なイメージからして善意であると断定されるだろう。が、敦はそうではない。根暗で芋臭い目つきの悪い男、ストーカーっぽいだとか陰湿そうだとか、マイナスにしか働かない。 結果、自分で片付けてと言うほかない。 「あの、柚木さん。」 「ん?」 「本当にありがとうございます。」 「ん…いや別に、俺はなにも。」 熱量に差がある。 フル残業以上の疲労を感じながらゆっくりと扉を閉じた。とりあえずおしるこの缶を片付けて、係長は現場にいるだろうか。あとは、なんとかしてくれるだろう。 とにかく面倒ごとは御免だ。俺は、自分の仕事だけしていたいのに。 加賀美さんにおしるこのこと、怒られないだろうか…。
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