紺屋の白袴

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「よー、お疲れさん。」 「わ、渡さん…勘弁してくださいよ。」 「俺は何もしてねーだろうが。」 現場に戻るやいなや渡さんが俺の肩を叩く。時計を見ると1時間程しか経過していなかった。 「ほれ、係長がお呼びだぞ。」 「わかってるって…。」 神妙な顔の係長がいつもの倍の速さで手招きしている。ブンブンという効果音が適切だろう。 特に恨みはないにしろ渡さんを睨んでしまう。うすら笑いが気に食わない。 「戻りましたけど。」 「けどってねぇ…。」 「山寺ちゃん、医務室で待たせてるんで。」 「はぁ…わかった、ありがとうね。とりあえず今日は帰らせるつもりだけど、後で詳しく聞かせてね。」 「はい。」 眞山さんが来る前に手短に話を切った係長は医務室へ歩を進める。相変わらず怠そうな足取りだ。 一瞬、視界に入った眞山さんと目が合うも、すぐに逸らされる。話を聞きたいけれど近づきがたい。そんな表情だ。俺から何か言ってやる義理はない。 いつだったか、あまりに酷い態度の派遣社員に思わず切れてしまって以来、眞山さんに怯えられている節があり、向こうから話しかけてくることはなくなった。 眞山さんは、普段不愛想で根暗で自己主張のない俺が声を荒げるわけがないと考えていたのだろう。正社員ながら舐められていたのだろうが、今ではそんなことはなく、高屋さんや係長以上に逆らってはいけない人間扱いをされている気がする。願ったりかなったりだ。 権力と怒りは使いようだと俺に教えてくれた。 まあ、そんなことがあってもなお、俺を舐め腐っている人間だっているのだが。 「柚木っちー。」 半笑いを浮かべた古口さんが軽薄をたたえて俺に近付く。瞳の奥には焦りが透けて見えた。内心としては山寺ちゃんがなにかまずいことを言ったんじゃないかといったところかな。 「なんですか。」 「あ、のさぁ話したんですよね、山寺ちゃんと。なんか言ってました? やー最近の子ってさぁ気難しくて扱い困っちゃうよねー。ヒガイモウソウ激しいっていうか。俺もちょっとだけ相談に乗ってあげようとしたんだけどさー、ほら、やっぱオジサンの話なんか全部お節介になっちゃうみたいでさー。」 でさー、でさー、と古口さんは繰り返す。間延びした話し方が妙に俺の神経を逆撫でする。自己弁護? 擁護? とりあえず俺の考えていたことと一致しているところにますます嫌悪感を抱く。 「俺、まだ何も言ってないんすけど。」 喉奥を這う低い声。古口さんの肩が僅かに上擦る。 「えっな、なーにピリピリしてんですかー? 柚木っち。俺だってなにも悪気があったわけじゃないっていいますか。」 「なにかしたって自覚あんなら、俺より山寺ちゃんに言うことがあるでしょうが。」 「え、いや、なに? 柚木っち、山寺ちゃんの肩持つんだ。はぁーまぁ仕方ないか正社員カップルだもんねー、カノジョの肩持つか、そりゃ。でもそういうの良くないと思うよ、俺。正社員だからってさ、つるんでそういうことすんの。職権乱用だと思いますよー。」 「だから、俺まだ何も言ってないんすけど。っていうか山寺ちゃんと俺、付き合ってないですし。」 「え? いやいや嘘つかなくってもいいって。あ、お年頃だもんねー、職場恋愛バレとか恥ずかしいか。でもさーそれとこれとは話が別じゃないですかー?」 どの口が言うんだか。冷静になれば大したことない相手だ。冷静になれば。 氷嚢が足りない俺の脳みそには火に油。あくまで大人の対応をしなければと理性が本能を雁字搦めにするけど、この人は俺を怒らせることに関して悪魔的な才能を持っているに違いない。 「だから……」 「はいはいストップ。」 突如、俺の肩を抱く大きな手。のしかかる体。野太い声が降ってくる。 渡さんだ。 「どっちもやめろっての。つーか敦、他に付き合ってるやついるし。」 「……え。いやだってこの間山寺ちゃんと一緒に出勤してたし…」 「えー、そんだけで付き合ってるとか思春期じゃないんだから。敦、付き合ってるやついるんだし、な?」 「う、うぅ…ん?」 ブラフだよな? 加賀美さんのことじゃないよな。だって別れたし。渡さんに伝わってるわけじゃ、ないよな? 生返事になってしまう俺に渡さんはあきれた表情。空気読めって顔だ。 「そう、だから。山寺ちゃんと付き合ってるとか、山寺ちゃんにも失礼でしょ…。」 「っていうか古口さんさぁ、やめとけって。」 「えっ」 「正社員、正社員言うなら、俺たちみてーな派遣、簡単にトバせんだから。」 渡さんの一言で空気が凍りつく。事実、派遣が一人、俺が係長に進言した後に別の部署に飛ばされている。俺の報告のせいなのか、元から良くない話を聞いていたからなのか。おそらく後者であるとは思うけども、当時俺は入社1年目で山寺ちゃんと同じく『辞められたらいろいろマズい』立場だった。 もちろん、古口さんもその話は知っている。 「あ…えっと、やー…だからさ、そんな怒んないでくださいよ柚木っち。…悪かったって。」 あからさまに一変した態度に総毛立つ。媚びへつらう嫌な目だ。 俺が顔を顰めると、古口さんは後ずさった。 口先だけでも謝罪すんなら… 「俺じゃなくて、他に言う相手がいるでしょ。」 古口さんは悪びれる顔をしない。心の中に濁りが溜まる。 この人は、悪いと思ってはいるが、結局のところ一過性のものにすぎないのだろう。俺に対する謝罪であり、山寺ちゃんの件に関してはどうとも思っていない。 俺は怒らせたらヤバいから。 久しぶりに(はらわた)が煮えくり返って、捻転しそうだ。 怨色、色濃く歪んだ顔。これでも抑えている方だ。もしこれ以上余計なことを言ったら 「だって山寺ちゃん、女の子だしさ。眞山さんとかのオバサンと違って若いし…ほら、ぶっちゃけ泣けば済むみたいなところあ」 「こんっのんむぐっふ…!!」 「あーハイハイ。そろそろ仕事しましょうねーお二人さん。そろそろ高屋さんに怒られっし。」 ずるずると渡さんが俺を引きずっていく。 がっしりと俺の顔を覆う手。誰が、好き好んで野郎の手のひらにちゅうなんかするか。 「ぶはっ…し、死ぬかと思った。」 「おまえさ、けっこう熱い男だよな。嫌いじゃねえけど、まぁ短絡的だわな。」 「う…ご、ごめん。止めてくんなかったら、やってたかも。」 「だよな。途中までスタイリッシュだったのに。俺がフォローしてやんなきゃどうなってたことやら。」 「……ありがと。」 「なんだよー、しょぼくれちまって。可愛いやつめ、ま、嫌いじゃねえよ。そういうの。」 なんで俺は、女の子より男に可愛いって言われるんだ。 異性との接触が少ないからか?
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