牡丹で彩る

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 正確に言えば、水原は耳が聞こえないわけではない。  左耳は完全に聞こえなくなってしまっているが、補聴器を使用している右耳には聴力が残っているらしい。普段は聞き取れる音と唇の動き、さらには文脈とを併せて判断して会話を読み取っているという。  金曜日、少し早めに終わった日本語学概論のあと、教室を出たところで水原に声を掛けられた。「明日なんですけど、学校前のコンビニで待ち合わせでも良いですか」と尋ねられたので「良いよ」と紫は頷く。すると少し間が空いてから、「じゃあ、よろしくお願いします」と素っ気ない挨拶を残して、水原はすたすた歩き去る。男の子としては高めで柔らかな水原の声は、紫と話すとき、いつも硬い。うわぁ気が重いと紫は内心で苦り切る。明らかに自分を嫌っている相手と、明日、結構な時間二人きりになるなんて。ため息を吐こうとしたとき、カシャン、と金属がぶつかるような音がした。音がした方を見ると、床に鍵が落ちている。落とし主は、ズボンのポケットからスマホを取り出している水原だ。「水原くん」と背中に呼び掛けるが彼は振り返らない。そうだよね、とつい反射で声を掛けてしまったことに何となく居たたまれない気持ちになりつつ、紫は鍵のもとへ駆けた。しゃがんで、鍵に手を伸ばす。キーホルダーが付いたそれを近くで見て、紫は目を瞠った。黄色くくすんだプラスチックの長方形に、百人一首の和歌と歌人がプリントされたキーホルダー。それに見覚えがあったからだ。 「光貴のですよね」  上から声が降ってきて、骨張った手が紫と同時に鍵に触れた。見上げると、かるた勝負の日以来に会う石川だった。「俺、届けますよ。あいつ、もう授業ないし、俺ももう帰りますから」と彼が人の好い笑みを浮かべる。石川と水原はルームシェアをしているらしいし、今から同じ家に帰るのならと石川に鍵を任せることにした。軽い挨拶を紫に残して、石川は水原を追いかけた。エレベーターの手前で石川に肩を叩かれた水原が端正な顔立ちを柔らかく緩ませる。自分に向けられる表情とのあまりの落差に、私って本当に嫌われているんだなぁと小さな溜息を吐いた。
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