牡丹で彩る

7/34
9人が本棚に入れています
本棚に追加
/34ページ
 翌日は、よく晴れていたものの空気が冷たい日だった。厚手生地のグレーの前開きパーカーを羽織り、待ち合わせのコンビニへ向かうと、水原はすでに来ていた。「ごめん、待たせちゃったね」と声を掛けると、「いえ」と素っ気ない返事が返ってきた。  水原がレンタカーを用意していたことに驚く。前髪を切るなどいったいどこでやるつもりだろうと疑問だったが、水原の実家が美容院らしい。市内だが交通の便がかなり悪い地区だということで、車で向かうようだ。  外の空間と遮断された車内にはエンジン音が響くだけ。気まずいことこの上ない。両手を組み合わせては離してみたり、窓の外を流れる景色を眺めたりしてみる。空を見て、雲を見て、互い違いに組んだ指をぎゅっと握って、建売の団地を見て、不意に水原の方を見てしまった。真っ直ぐに前を見て運転をする彼の横顔は、まるでギリシャ神話の彫刻のように鼻筋が通っていて綺麗だ。くっきりとした二重の線とは裏腹に、長い睫毛は細く儚げで、何だかそわそわと落ち着かない気分になってくる。それをごまかすように、「あっそういえば」と紫は声を上げた。 「あのキーホルダー、」  水原は前を見たまま、紫の言葉から一呼吸分遅れて、微かに肩を震わせた。 「すみません、何か言いましたか」  えっと紫は小さく声を上げた。水原の声は、普段の素っ気ない声ではなかった。思わず出てしまったというような声で、そして隠されてはいるものの、大きな焦りと僅かな怯えを含んでいるように聞こえた。聞こえないんだと気付いた紫は「ごめん、何でもない」と言葉を取り消そうとしたが、それも当然、水原には届かない。ああそうだよね、と紫は情けない気持ちになりながら、バッグからスマホを取り出した。メモ作成画面を開いて文字を打ち込む。先週にスマホをアンドロイドからアイフォンに買い替えたばかりで、文字入力の勝手が違ってやりにくい。苦戦しながら文面を完成させると、丁度、車は信号待ちになった。〈ごめんね大したことじゃないから謝らないで。後で言うね〉スマホの画面を見せると、水原は、「すみません。後でちゃんと聞きます」と前を見たまま答えた。  その時、スマホがメッセージの受信を告げた。見ると、雛形からのメッセージだ。〈前髪、もう切られたの?〉とのメッセージに、たどたどしく〈まだだよ〉と返すと、すぐにまた〈切ったら結果見せて(笑)〉と届いた。もしかしたら、こんなメッセージを悲しく思わなければいけないのかもしれない、と頭の片隅では一応分かっている。それでも、〈了解〉とおどけた顔文字付きで送ってしまう。何て不毛なんだろうと思わないこともないが、いかにもモテる風な――実際に二か月前まで他学部に彼女がいた雛形を、明らかに三枚目キャラの自分が、うっかり一目惚れのような形で好きになってしまったのだからおそらくは仕方のないことなのだ。
/34ページ

最初のコメントを投稿しよう!