1人が本棚に入れています
本棚に追加
五十三話:静かなる酒場
カンタラ。若葉達が砂嵐から解放される八刻――四時間前。
日が昇り、朝の寒気の中に温かみを感じる陽の申の刻――午前九時。
眠っていた町はすっかりと起き、今日も街は賑わっている。
しかし、今日はいつもと違った喧騒が街の中を支配していた。
皮鎧や鉄製の鎧を身に着けた者や大きな猪の頭を被った三人組など、様々な者達が街の中を走り回る。
腰を曲げた老人はおぶり、親とはぐれて泣いている子供を抱えつつなだめ、寄り添い歩く夫婦を見守り、渋々歩く男の背中を押し、彼ら――冒険者達は町の中心にあるギルドへと民を誘導していた。
すでに想定していた一刻半は過ぎ、彼らの表情にも僅かな焦りが見えるが、この場から逃げ出す者などおらず、速まる足音が町中で響いている。
そんな表とは打って変わって、メルンの酒場は静まり返っていた。
買い物客や町の外へと向かう冒険者達で賑わう東門前にあり、おまけに中心部にあるギルドを起点にして、町を十字に分ける大きな通りに面した好立地。
しかし、店の中には名物であるブラウンレッサーコカトリスの骨付きスープの芳醇な香りに魅了された客は疎か、いつも奥のカウンター席に座ってガハハと笑っている男勝りな店主もいない。
乱雑に並べられた木製のテーブルの上には、誰かの食べかけの皿が残っていて、悲し気に周囲に香りを放っていた。
「ギルスーあったかぁー?」
酒場の入り口から右手にある階段の下。
階段で影になるその場所に、一人の男の姿があった。
乱雑に切られたチョコレート色の髪と髭に太い眉。
頬に鋭い何かで切られた様な大きな傷痕。
白い包帯のような布でぐるぐるに巻かれた巨大な得物をうしろの壁に立てかけ、戦いの中で鍛えられたであろう美しい稜線を描く猛牛のような肉体をこの狭い空間に押し込めている。
カンタラが誇るSランク冒険者の一人――アベルは、その細めた鋭い目でカウンターの向こうを睨む様に見つめていた。
その視線の先で「もうちょい待ってくだせぇー」と返事が来ると、アベルは右手で空になったコップをテーブルの上で器用に回し、大きく溜め息を吐く。
「たっく、今日は大猟だと思ったのによぉ。自慢する奴もいなけりゃ飲む酒もねぇときた。おまけに仕事サボりついでに店番をしろだぁ~? マチルダのやつは年長者への敬意ってやつが足りねんだよ……なぁ、ギルス?」
「え? あ、ああ! そっすね~?」
アベルはまた一つ大きく溜め息を吐いたあと、目の前のテーブルに置かれた巨大な魚の料理をつつこうと、フォークを摘まむ。
その時、店の外開きの両扉が開かれ、ドタドタと何人もの人が押し入って来る。
そして、アベルが座るテーブルへと辿り着くと、一斉に口を開いた。
「てぇへんだ兄貴! ばあちゃん達と孤児院のガキ達がモンスターなんか怖くねぇって刃物持ってギルドに集まってる!! 今トデット兄達が止めてるけど、あのままじゃ西門に行っちまうよ!!! あとサントが吹っ飛んだ!!!!」
「兄貴! 避難時に鍋って必要なのか?! オレわからねぇから取り敢えず被ったまま逃げろって言ったんだがあってたか?!」
「アベルのおじちゃんわたしもすこし休む。お茶ちょうだい」
「アベルの兄貴ー……あれ、えっと……東大通りの道具屋の……イ、エ、エレバ……ド忘れちまった。あ、あそこのばっちゃんがこの子と一緒に残るってでっかい魔術具にしがみ付いて離れねぇんすよ。どうすりゃいいと思います? ありゃ赤ん坊もびっくりの握力っす」
頭に猪の被り物をした男や底の深い鍋を被った男、両腕に丸い盾を付けた白いローブの少女、首を傾げて頭を掻く青年の四人が次々と喋り出す。
更にうしろにいた者達も「噛まれた」やら「ゴースト」やら騒ぎ出す。
ブチッと何かが切れる音が聞こえると、アベルがテーブルをトンッと軽く右手で叩く。
ボンッ
騒いでいた者達が下から突き上げられる様に一瞬浮く。
慌てて着地するが、驚きで皆口を閉ざす。
「うるっせぇわお前ら! 俺はギルド長じゃねぇから聞くな! お前は座れ! ギルスお茶だ!」
「お茶ー」
「へいへーい」
すっとイスに腰掛ける少女とカウンターからの気の抜けた返事。
このまま静かに終われば良かったが、そうはなってくれなかった。
「そんな! 兄貴だから聞いてるんですよ!」
「大将怖いから聞きにくいんでさぁ!」
「俺もお茶いいっすか?」
何だか泣きそうな表情で必死に訴える者や開き直った様に笑顔の者、手を挙げてお茶を所望する者。
またもや騒ぎ始めた者達に、流石のアベルも根負けといった様子で、げんなりとした表情を浮かべた。
そして、一度ガックリと頭を下げると、奮い立つ様に顔を上げた。
「あ~たっく……一人ずつだ! 一列に並べ! 横入りするなよ! あとお前は座れ! ギルスお茶追加ぁ!」
「へーい」
男達が「うぉおおおお!」と喜びの声を上げ、お茶を所望した青年は座る。
結局。アベルは酒場に詰め掛けた十二名の冒険者に助言をし、何を勘違いしたのか長々と悩み事を話し始めた三名に拳骨を落した。
表が静かになる頃には、アベルの助言を受けた者達は酒場を去り、お茶をゆっくりすする少女とちびちびお茶を飲む青年、短い茶色い髪をうしろに流した男――ギルスとテーブルに突っ伏すアベルの四人だけとなった。
「あーめんどくせぇ。あいつが面倒な仕事任されなけりゃ、今頃美味いつまみと酒だけで生きていたってのに……なんだって俺がガキどもの子守りなんてしなきゃなんねぇんだよ……」
テーブルに突っ伏したままのアベルがブツブツと呟く。
「アベルのおじちゃんお疲れ? お茶飲む? 休まるよ?」
そう言って、首を傾げた少女は自らの手に持ったお茶が入った木のコップを差し出した。
まだ熱が残っているのか、すこしだけ湯気が見える。
アベルは顔をすこしだけ上げると、彼女が差しだしたお茶の次に彼女の両腕に付いた二つの盾を一瞥し、「いいから飲め」と言ってまたテーブルに突っ伏した。
「すんません兄貴。でも、俺達だって早く一人前に成れるように頑張ってるんすよ?」
掻くのを頭から頬に移した青年がそう言うと、ガバッとアベルが起き上がり、青年をじっと見つめた。
突然の事に青年は困惑し、あははと苦笑いを零す。
その隣でギルスが何やらガラス瓶を傾けている。
「……だったらたらふく食ってでかくならんとな。ほれ食え。細かい骨に気を付けろよ」
ぷはぁとまた溜め息を吐いたアベルが自分の目の前に置かれた皿をテーブルの中央に置いた。
大きな魚を香草と一緒に焼いたものに透明なソースがかけられたもの。
出されてからかなりの時間が経って冷めてしまっているが、そこさえ目を瞑れば、海が遠いカンタラではかなりのご馳走だ。
「ありがとう。解体なら得意」
「兄貴骨取ってくれません? 俺魚食うの苦手なんすよ」
「お前こいつより年上だよな?」
少女が盾をそのままに腕まくりをしてフォークとスプーンを手にし、青年がアベルに助けを乞い、それにアベルが呆れ、ギルスがガラスのコップで何かを飲んでいる。
その時だった。
一つも音も無く、静かに、酒場の扉が開く。
ぬっと一人の長身の男が店内へと入り、扉がゆっくりと閉まる。
バタンと大きな音が店内に響き、すでにそれとなく視線を向けていたアベルとギルス以外の二人も入り口へと視線を向けた。
青年が小さく震えた声で「大将……」と呟いた。
店内へとやって来た男――マットが一歩、また一歩と階段の下にある四人が囲むテーブルへと近づく。
コッ、コッ、と鏡の様に綺麗な黒い革の靴に打たれた床が鳴る。
黒い外套が小さく揺れ、中に着ている濃い青を基調に薄い黄色と白の線が入ったギルドの制服が覗く。
マットがテーブルの前へと着くと、おずおずとギルスと青年が席をずらし、マットをアベルの正面に迎え入れる。
しかし座る事は無く、マットは口を開いた。
「召集をかけたはずなのだが?」
「すまねぇ、知らんかった」
「そうか、なら今説明しよう。Sランクのモンスターが世界樹の森方面から此方へ向かって来ている。今後も財布の事を考えずに酒を飲みたければ、すぐに向かってくれ。ハンナ、ガレオ、君達は避難誘導をしていたはずだな? すでに非難誘導は終了し、皆ギルド本部へ転移したぞ。君達も早く行きなさい」
「「はい」」
ハンナと呼ばれた少女は大きな口を開けると、頭から魚を一気に食べ、「ごちそうさま」と立ち上がる。
ガレオと呼ばれた青年は跳ねる様に立ち上がると、一礼し、スタスタと逃げる様に酒場をあとにした。
残されたのはアベルとギルス、マットの三名のみ。
ふわっと何処か窓が開いていたのか、風が店内に吹き込み、薄い緑色の風にのって、可愛らしい黄緑色の小鳥が飛んで来る。
小鳥はマットの肩に止まると、ふわりと緑の光となり、一つの丸められた紙を残して消えた。
肩に器用に乗った紙をマットが手に取り、広げる。
そして、極めて小さく溜め息を吐いた。
「どうした」
マットが隠した何かを感じ取ったアベルが問い掛けると、マットはその手に持っていた紙をテーブルに置いた。
「テオ達の報告書だ、読め」
そう言ってまた極々小さく溜め息を吐いたマット。
その様子を不審に思いつつ、アベルは報告書を手に取り、読み始めた。
ブフォッと隣で覗く様に読んでいたギルスが吹き出す。
「おいギルス! きたねぇぞ!」
「すいやせん! でも何ですかこれ? あいつら、まさかモンスターに『君は噛み付いてきますか?』とでも聞いたんですかい? おまけに観覧って……クッ」
また吹き出さないようになのか、口を抑えて笑うギルス。
アベルはその姿をギロッと睨み、止めさせる。
そして、テーブルに報告書を置き、一か所を指で示す。
「特異性持ち。これぁ確かな情報か?」
その言葉に報告書を最後まで読んでいなかったギルスはギョッとした。
「そうみている」
「はぁ~。とんでもねぇ時にサボっちまったなぁ」
淡々と返答するマット。
しかし、すこしだけ眦が動いているのを見たアベルは、テーブルの上に肘を立て、マットの分までとばかりに大きく溜め息を吐いた。
「ああ。今度は無いぞ」
「こんなの何度もあってたまるか」
「違いない。だが前例が出来た。次もある可能性は否定出」
「――それ、俺が倒してやろうか?」
マットとアベル、二人の会話に何者かが混ざる。
その声へと即座に視線を向けた三人の先には、階段の最後の段を下りた青年の姿があった。
彼の身に着ける光沢を持った青い鎧や背負った剣は非常に目立つ。
しかし、その見慣れぬ姿にマットは鋭い視線を送った。
「私はマット。このカンタラの冒険者達を束ねている者だ。見た所君は冒険者のようだが、名前を聞いても構わないかね」
「あんたがここのギルドマスターなのか。俺は充。冒険者なんてものじゃなく、勇者の斬崎充だ」
この辺りではあまり聞かない名前に“勇者”と名乗った青年。
マットは心当たりがあったのか、小さく頷いた。
「そうか。ではマコト、冒険者でない君は、今から冒険者になってくれるのかな?」
マットの問いかけに、充は顔を歪め明らかな不快感を表した。
そして、「ふっ」と笑うと口を開く。
「あのさぁ、勇者って意味わかってる? 俺って自分より下のやつに命令されるの嫌いなんだよね。なんか間違えて森に転移しちゃった影響なのか力がちょっと、いやだいぶ出にくいけど、まあドラゴン片手で倒しちゃう俺だし? 今でもゴブリンくらいなら秒でみなごろしにできたから、あんたらよりも強いと思うんだよね。なんなら、ここで……ためしてみる?」
そう言って充は背中に背負っていた剣を僅かに手間取りつつも抜く。
時が停まったかのように静かになった酒場。
その中でアベルは怒りの表情で充を睨み、ギルス信じられない事を聞いたかのように口を震わせ、マットはより細められた目で充と相対していた。
「小鬼族を皆殺しにしたと……?」
「ん? ああ、そう。俺を見ても怖がらないし、手を振って来るしでキモかったから、斬ってやったの。そしたら、ぎゃー! って逃げようと」
「いや、もう十分だ。アベル」
「え、なに? 俺の話を――うわぁ!」
充の体がぐるんと反転し、浮き上がる。
充の右足首に白い包帯のような布が巻き付き、彼を吊り上げていた。
布はそのまま足から頭の先まで巻き付いていく。
「やめろ! ……くそっ、アルカディア! 助けろ! ほら光れって! なんで斬れないんだよ!」
次第に巻き付いていく布に剣を叩き付け、何やら剣に訴えかけ始めた充。
しかし剣が光る事も、布を斬る事もなく、充は簀巻きになった。
鼻は呼吸のために出ているが、苦しそうに呻っている。
しばらくグネグネと動いていた充だったが、諦めたのか、静かになった。
「マズいぞマット。このままだと小鬼族を殺された報復に王が来る。アレは俺達だけで抑えられるモンじゃないぞ」
いつの間にか左手に握り込んでいた充に巻き付いた布の先を放り投げながら、アベルが苦虫を噛み潰した様に顔を歪ませる。
マットは充を軽々と背負うと、アベルへと向き直った。
「私はこの異世界人を連れて一度本部に行く。二人は西門外にて対象の監視を頼む」
「観覧は?」
「許可だ。テオ達の動きにも気を付けろ。魅了されている可能性も捨て切れん」
「よし行くぞギルス」
アベルは腰を上げると、右ポケットから金貨を一枚テーブルに置き、うしろに立てかけていた自分の身長よりも大きな得物を担いだ。
ぽかーんと口を開けて呆けていたギルスは、もう一度アベルに名前を呼ばれると、ドタドタと動き出す。
瓶に入った琥珀色の液体をラッパ飲みすると、いつの間にかテーブルの下に並べられていた三本の空の瓶の隣りに置き、席を立ち、忘れ物が無いか周囲を見渡す。
ギルスの足取りがおぼつかないのを不審に思ったアベルが片眉を上げた。
「お前はさっきから何飲んでたんだ?」
「あ、あれ? 酒ですけど?」
「一人占めしてたのかよ!!」
ギルスの頭に落ちた拳骨は、それはそれは良い酔い気覚ましになった。
最初のコメントを投稿しよう!