第二章 道化の産声

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第二章 道化の産声

 そんじゃあもう一杯貰おうかな、水割り。  ああ、薄めでな。  不思議だよな、今日はなんだかいつもより酒が美味く感じるよ。  少し心も口も軽くなってるからなんだろうなあ。  まあ、せっかくだからもう少し俺のめんどくせえ話に付き合ってくれよ。  俺の記憶がはっきりし出すのは……小学校高学年の頃か。  高学年の頃ねえ……。  まあ……その、なんだ、さっきも言ったが俺はきっと変わった奴だったんだと思う。  変わった、って言ってもそりゃあ世の中の全員がそれなりにどっか変わった部分を持ってるよな。  それは言わば個性、ってやつだ。  個性なんてのはそいつの育った環境や見聞きした経験からしか生まれねえもんだと思うんだがさ、なにせ俺はひとりっ子でな。  しかも親は日曜日も仕事だからな、買い物ぐらいしか一緒に行動することがないのさ。  だから必然的にテレビ観たり本ばっか読んでたりしたせいで、ガキの割には知識だけはあったんだ。  そんでたまに先生も知らないようなことを知ってたりしてな、その先生からは物知り博士なんてあだ名もつけられたりしたよ。  それはある種の嫌味も含んでんだろうな。  だってよ、その先生は通信簿に「悲観的な行動が目立ちます」って書いて寄こすのさ。  お袋、それ見て泣いてたよ。  まあ、親父には当然のように殴られたけどな。  そんで俺は悲観的、って言葉を調べたのさ。  そうしたら、その物事に対して望みが持てない状態、って書いてあったんだよな。  それ見てよ、ああ、俺は周りから見たら望みなんか持てない人間なんだな、って悲しくなったのを覚えてるよ。  でもな、最近になって確かに周りからしたら俺は悲観的な事をしていたのかもしれねえな、って気づいたんだよ。  自分のことだからよく分かるんだが、俺はその頃から人との距離の取り方が下手でな。  それだけじゃなく、とにかく親からは屁理屈が多いって言われてたんだよな。  この場合の屁理屈って言葉の意味は、口が達者で大人の言う通りに行動しない、つまり周りの大人をイラつかせるガキってことだ。  怒られてる最中も言い訳をするし、理屈で押し通そうとして反省の色も見えねえんだからそう取られても仕方ねえよな。  俺は親にも先生にも、悲観的、なんて思われたくなかったから、ちゃんと自分が間違ってないってことを伝えようとしただけなんだ。  ただひとこと、ごめんなさい、って言葉を言えないせいで、勝手にきつい思いをしてただけなんだけどな。  たださっきも話したとおり怒られないように人の顔色を伺ったり、いつも笑ってたりするのがせいぜいさ。  そりゃあ屁理屈って言葉の本質を理解してないんだから治しようがねえ。  こうやって周りとのすれ違いが大きくなっていって、それが俺の個性として周りに認知されはじめるとどうなるか分かるかい?  まあ、相手は俺も含めて子供だからな。身体の特徴ですら平気で差別してくるような奴らが、自分たちとは違う個性を持った俺をほっとくわけがねえよ。  当たり前のようにいじめてくる奴らも出てくるし、女どもはいちばん短い言葉で俺を拒絶し始めるんだ。  気持ち悪い。  その言葉だけで大抵の否定的で差別的な行動が許されちまうからガキの社会ってのは恐ろしいよな。  それでも友達って呼べる相手はいたんだぜ?  特に、家も近所で一緒に遊んできた奴らとかとはずっと仲良かった。  なんの分け隔てもなく付き合ってくれてな。ガキなりにそりゃあ有り難かったよ。  ちょっと長くなったけど、ここら辺は話の入り口なんだ。  こっからちょっとママも考えながら聞いてほしい。  ママは誰かに嫌われたりいじめられたりって経験、あるかい?  ある? へえ、意外だな。  良かったらどんなことされたか、話せる範囲でいいから教えてくれないか。  うん、うん……。  なるほどな。はは、そうか。  あのなママ、それは嫌われてるんじゃなくて、むしろ好かれてるんだ。  ガキの頃に男の子にからかわれたなんてのは、言ってみりゃあ愛情表現の裏返しみてえなもんさ。  その年頃の男なんて、女って生き物とどう接していいか分からねえのさ。  興味は溢れるほどあるけど、知識も度胸もねえ。  おまけにヘタなことをしたら自分がいじめられるってのが分かってるからな。  だから自分に興味を持ってほしくて、わざと女の子が嫌がるようなことをするのさ。  ママは嫌われていたんじゃなくて、そいつらにとって振り向いてほしい存在だった、そういうことだよ。  いーや、違うって。  だってよ、俺がガキの頃好きだった子にしたのとほとんど同じなんだよな、ママがさっき言ったことは。  ああ、そうだ、間違いないよ。  少なくともママはそいつらにどんな風にかは分からないが、興味を持たれてたんだ。  周りからちゃんと、見えていた(・・・・・)んだよ。  ところでよ、ママ。  いじめ、ってどういう状態だと思う?  お、難しいかい?  そうなんだよな、さっきのママの体験がいじめじゃないとなると、途端にいじめって何なのか説明できなくなっちまうんだよ。  まあいいや、じゃあその話はいったん置いといてだな。  俺が思うにな、少なくともいま社会に出ている人間のほぼ全員が、どんな形であっても、いじめってやつを目にしたことがあるはずなんだ。  それはいわゆる当事者ってだけじゃなく、いじめてた奴とかいじめられてた奴を知ってる、とか、そういうことを耳にした、とかも含めてだ。  そりゃあよっぽど田舎の、全校で10人ぐらいしかいないような小さなコミュニティーではいじめはねえだろうな。  なぜなら全員がお互いを見て、相手がどう思ってるのか意識しながら過ごすことができるからな。  どうもそういうのを社会心理学ではシンパシーグループ、って言うらしい。  へへ、だろ? 俺は物知りなんだよ。  よし、褒められたついでに大根とがんも、あと卵を追加でもらえるかな。  ええと、なんだっけな、ああそうだ。  そんでこのグループってのはシンパシー、つまり深い悲しみや喜びを共感できる間柄で、人数の上限は自分を中心とした15人が限度なんだそうだ。  それがひとつのグループでなくともいい、要は自分を取り巻く人間関係の中で深く共感できる相手はそんなに多くない、ってことさ。  もちろん15人よりも少なければ少ない方が、より一層シンパシーを感じることができる。  そんでそれをどんどん煮詰めていったものが、親友って呼ばれる存在だな。  何が言いたいか分からないって?  要するに俺は、ちゃんと気遣える他人はせいぜい15人までってことが言いたいんだよ。  あいつは傷ついてるから自分も悲しいとか、その逆にあいつが喜んでるから自分も嬉しいだとか。  特に、その相手のことを助けてあげたいと思うことができるかどうかが重要になる。  そうすれば少なくともその相手をいじめてやろう、苦しめてやろうなんて気は起きないはずだからな。  だからさっき例に挙げた全校で10人ぐらいの学校は全員がこのグループに入るわけで、そうなるといじめは起こらない可能性が高いよな。  ところがこれが例えばひとクラス30人とか40人のグループになるとガラッと話は違ってくる。  その集団は時間の経過とともにゆっくりと分裂して、最終的にいくつかのちいさな集団になる。  つまり、シンパシーグループがいくつも形成されていくわけだ。  つまるところ人間なんてのは弱いもんでさ、共感しあえる人間が周りにいることに安心する生き物なんだよ。  だからクラスの中でちいさな集団が生まれたとき、そのメンツは似たような奴が集まってることが多かっただろ?  どっちかっつうと、男よりも女の子の方が顕著だったよな。  気が付きゃ上位グループとか下位グループとか、ありもしねえ序列まで付けられてる始末でよ、そんなのはただ毛色や思考が似てる奴らが集まった結果なのに、他の奴らと比較することでグループや個人の特徴が浮き彫りになっちまう。  そしてその特徴が自分の価値観とかけ離れていたら、自然発生的にいじめが始まるんだ。  だって相手は自分のシンパシーグループの外側にいるんだぜ?  要はそいつが辛い思いをして苦しんでも、共感できないし共感する必要を感じないんだ。  だからいじめの端緒ってのは大抵、大人数が個人やより人数の少ない集団を標的にする。  つまりは数の暴力さ。  一人が集団をいじめてるなんて話は聞かないだろ?  もしそんな状況が成立するとしたら、それは洗脳やファシズムだよな。  だってよママ、ちょいと考えてもみなよ。  はなから相手に対して悪意を持てる人間はそう多くないと思わねえか?  もし自分が悪意のある汚い奴だって周りの奴らに思われたら、そのシンパシーグループから弾き出されるかもしれねえ。  そんなリスクを冒してまで、自分はあいつをいじめたいんだ、なんて言える奴はそういねえよ。  だいいち最初は自分と違う特徴をからかった(・・・・・)だけなんだから、そこには悪意なんて存在しねえだろ。  その時点でそれは単なる遊びだからな。  まあ言い換えればいじめの発端は、相手に対する興味なんだ。  それが暴走して、相手の気持ちを無視できるようになって、そこに集団という条件が加わったら……あとは分かるよな?  ただ同時に、悪意がないってのは本当に危険なことでもあるのさ。  からかった相手が面白い反応をして、もういちどそれを見たくて悪意なくまた同じことをして、もっと面白い反応が見たくて少しずつからかい方が過激になってゆく。  逆に反応が薄かったら、自分が期待していたものと反応が違ったからって理由で、面白い反応をさせるために少しずつからかいの度合いを強める。  結局ターゲットになった奴に待ってるのは同じ道なのさ。  悪意のない、ただの遊びの延長である「からかい」が過激化して暴走して、やがてそれに対してはっきりと拒絶できるタイミングを逃してしまったせいで泥沼にはまっていく。  つまりはこの「からかい」こそがいじめの本質で、悪意のなさというのがいじめを過激化させるエサなんだな。  いじめられる側と違ってどこまで行ってもそいつらにとっては遊びの延長のつもりだから、いじめとの境界線なんて誰も意識してないのさ。  だからいじめかどうかってのは、やる側の視点からじゃなく、受ける側の視点から判断されなきゃいけねえんだよ。  やられた奴が不快に思った時点で、それはからかいなんかじゃなく立派ないじめなんだ、ってことを俺は言いたいんだよな。  だっていじめた側によ、お前はいじめをしたのか? って聞いたところでそりゃみんな判で押したように、してませんって言うだろうよ。  さて、ここまでいじめってやつの定義について話したけどな、こっからは俺自身の話の続きだ。  まあ、そうだな、さっき言ったとおり俺はいじめに遭った。  いや、インターバルがあったけど、何年もいじめられ続けた。  最初は小学校5年生の頃だったと思う。  まあ要は女子からばい菌扱いされたり気持ち悪がられるとかそういった軽いやつがあったな。  それとは別に手の付けられない悪ガキが二人いて、俺はそいつらに標的にされたうちのひとりだったんだな。  発端と内容は……、正直よく覚えてない。  あいつらは人と違うことや悪いことができればそれでいいようなガキだったし、俺にしていたのも単なるウサ晴らし程度で中身のないことだったんだと思う。  ああ、本当に覚えてねえや。  俺は当時けっこう嫌な思いをしたはずなんだが、殴られたりとかはしてねえと思うんだ。  まあ、まだ毛も生えてねえガキのやることなんざ、たかが知れてるわな。  ただし、そいつらの行く末は悲惨だったよ。  中学になるとすぐにそいつらは他の学校から来た奴らの標的になった。  ひとりは集団で暴行された挙句にいわゆる最下層のグループまで落ちて、人が変わったように大人しくなった。  もうひとりは同じく集団で暴行されて、され続けて、最終的には学校に居れなくなって、そういった生徒が集まる施設に入れられたよ。  そいつが施設送りになってから少しして、小学校の頃の俺を知ってる奴に、あいつらがあんな目に遭って嬉しいだろって聞かれたけど、俺は別になんにも感じなかったんだ。  ただ、ああ、調子に乗るとこういう目に遭う奴もいるんだな、ってことを勉強した気持ちになったよな。  こうして中学1年は実に平和に過ぎて行った。  部活を始めたことで仲のいい友達も増えてな、毎週末はどこかに遊びに行ったりしたもんさ。  ところが、これで終わらねえのがいじめの怖いところでな。  中学2年になるときのクラス替えで、小学校の頃は別のクラスだったけども俺の学年でいちばんのろくでもないガキと一緒のクラスになったんだ。  そいつは小学校の頃は先生たちも呆れるぐらいのろくでなしで、とにかくずる賢い奴だった。  気の弱い奴を恫喝してそいつに悪いことをやらせて自分は素知らぬ顔をしたり、万引きや窃盗なんてのは日常だったんじゃねえかな。  そして少しでも歯向かえば殴ったり蹴ったり、校舎の窓から突き落とそうとしたり。  しかもそれは絶対に大人の目の届かないところでやるから始末に負えねえ。  そんな奴と同じクラスになった。  俺は正直絶望したよ。  だって俺にはな、そいつに恨まれる理由があったんだ。  そんで案の定、すぐに俺はそいつからいじめられるようになった。  でもひとつだけ嬉しいこともあったんだよ。  近所に住んでた仲の良かった友達も同じクラスになったんだ。  そいつが同じクラスだってだけではじめはずいぶんと心強かったな。    で、いじめの内容なんだけどな、不思議なことに今でもはっきりと覚えてる。  だってよ、小学校の頃にされたこととは次元が違うんだぜ?  まずは金を取られる。  小遣いがあろうがなかろうが、とにかく何か因縁をつけて俺から金を持っていく。  ひどいもんだったよ、なにせ自分が壊したものを俺が壊したことにして弁償しろとか、もう訳が分からねえ。  そして金を持ってこなければ拷問大会って言ったかな、ごつごつと尖った岩の上に正座させられて、その足の上に男子二人がかりでやっと持てるような岩を乗せるんだよ。  ジャージ越しにでも岩が足に食い込むんだからそりゃ痛いよな。  痛くて声も出ねえけど、不思議と俺の足は何ともなかったよ。  それでよ、ママ、今の話に違和感はなかったか?  まあ普通に聞いてりゃ聞き逃しちまうようなことだから分からなくても仕方ねえさ。  ……俺の足に乗せられたのは、男子が何人がかりでやっと持てる岩だった?  そう、正解、二人がかりだ。  つまり、俺を積極的にいじめる奴はいつの間にか二人に増えていたんだよ。  主犯の奴は弱い奴を恫喝して悪事に加担させるって言ったよな?  でも二人目のこいつは違う。  自分から進んで、俺を苦しめる側に回ったんだよ。  そう、ママの言うとおりひどい奴さ、本当に。  ガキの頃からずっと近所で一緒に遊んでたのにな。  驚いて声も出ねえか……、無理もねえわな。  そうだよ、その幼馴染がにこにこしながら俺の足の上に岩を落としてたんだ。  信じられねえって顔してるけどな、ママ、これが現実さ。  そいつは自分がターゲットにされる怖さを知ってるから、主犯と一緒になって俺をいじめることで自分から目を逸らさせたのさ。  卑怯とかそんな次元じゃねえよ。  でもな、そんな奴が合唱コンクールで指揮者をしたりするんだから笑えるよな。  彼はリーダーシップに溢れてる、なんて先生の言葉を聞いて反吐が出そうだったよ。  そんな日々がしばらく続いてな、そいつが嬉々として俺にエアガンを撃ったり、俺の手の甲をシャーペンでほじくったりしているのを見ながら、俺の心にゆっくりと変化が起きていたんだと思う。  変化って言えば聞こえはいいかもしれねえが、要は狂っていったのさ。  辛いとか悲しいとか、そういうことを感じなければいいんだ、ってな。  そんであるとき、あまりに表情が変化しなくなったのに気づいたお袋が俺に聞くんだ、もしかしていじめられてるのか、ってな。  まあ俺はいじめられる常習犯だったから当然そう思ったんだろうが、今にしてみれば俺は明らかにおかしかったと思う。  成績は下がるし表情はないし、周りからその頃の俺はどう見えていたんだろうって考えると恐ろしくてたまらなくなるよ。  そんで俺がされていることを昔話でも聞かせるように話したら、しばらくしてお袋が倒れた。  相当なストレスで血圧が上がったんだろうな。  脳梗塞だったよ。  左半身がほとんど動かなくなってな、それでも懸命に治そうとして頑張ってた。  俺は毎日学校帰りにお見舞いに行ったよ。  そのたびにお袋は無理して笑うんだ。  その姿を見ながら俺は、ああ、俺のせいでお袋がこんなになってしまったんだなって情けなく思ったものさ。  そして、心配させないようにせめて笑っていよう、ってな。  でもな、ここでもまだ俺は自分が狂い始めたことに気づけなかった。  俺が感じたのは心配させないようにしようってただそれだけで、お袋が動かない身体を懸命に俺の方に向ける姿を見ても、悲しいとも、辛いとも感じなくなってたんだよ。  いいかい、ママ、別にアニメの冷酷なキャラクターの話なんかじゃなく、人間の感情ってのは、自分で消せるんだよ。  でも顔の筋肉は自分の意志で、笑っているのと同じ形に動かすことはできるんだ。  だから他人から見れば、俺はあまり表情の変化はなくとも、なんとなく笑っているから普通に映るんだよ。    俺が頑張って我慢してたのもあるのかな、お袋は医者も驚くぐらいの速さで回復して、ほんの何か月かで退院してきた。  まあ俺の状況は何も変わってなかったんだけどな。  そしてお袋は退院してから少しして、俺に真剣な顔で尋ねてきた。  担任の先生にお前のことを相談していいか、ってな。  そこには相当な葛藤があったはずなんだ。  この相談がうまくいけばいいが、もし先生が指導方法を間違えたりしたら逆恨みで今以上に俺に対するいじめが激化する可能性があったからな。  しかもさらに悪いことに、その頃の学校は、いや、俺の学年は驚くほどに荒れていてな。  15人ぐらいのとんでもない不良グループがのさばってて、他校に行って喧嘩したとか傷害事件を起こしたとかで、最終的には県内のニュースとして扱われるほどにひどい有様だった。  お袋はきっと、そいつらにまで目を付けられたら俺は殺されるんじゃないかと考えたと思う。  それでも先生なら何とかしてくれると思って、最後の希望を担任に託そうとしたんだよ。  お袋にとっては苦渋の決断だったと思うし、俺もそれは感じていたから、うん、とだけ答えたよ。  確か夏の暑い日、夜7時過ぎだったと思う。  お袋は俺を呼んで、目の前で担任の住むアパートに電話をかけた。  担任は男の数学教師で当時27歳だったかな、きっとまだあまりお金もなくて、固定電話のないアパートに住んでいたんだよ。  アパートの管理人さんが担任を呼んでいるあいだ、お袋はじっと一点を見つめてたよ。  どんな気持ちか今は想像つくが、そんときはその表情から俺は何も読み取ることができなかった。  しばらくして担任が出てから、お袋は決して取り乱すことなく、淡々と俺の話したことをそのまま伝えてくれた。  時間は20分か30分ぐらいだったと思うが、話し終わったお袋の目からは涙がひとすじだけ落ちてたな。  きっとそれは、これで俺が苦しまなくて済むかもしれないっていう希望と安堵の涙だったんだろうと思う。  それから担任は俺に電話を替わり、辛かったな、とか、俺も手伝うから、とか、今までかけられたこともないような優しい言葉をかけてくれたよ。  そして最後に、お前と俺だけで話をする場を作るって約束してくれたのさ。  その日はすぐに来たよ。  まあどこも一緒だろうが、俺の学校では年に二回の全校総会ってのがあってな。  受付の事務員さんと用務員さん以外の全員が体育館に集まるのさ。  その総会に行く前に俺は担任に呼ばれて、総会には最初だけ出て、あとは出なくていいって言われたんだ。  生徒指導室で俺と話をしようってな。  このときは本当に嬉しかったんだ。  自分でもはっきり自覚できるほどに、嬉しかったんだよ。  いいかいママ、悲しいとか辛いっていう感情が薄くなってるっていうことは、他の感情も一緒に薄くなってるんだ。  都合のいい感情だけ消すなんて、人間にはきっとできねえと思うぜ。  そんな俺が、嬉しくて声を上げそうになったんだよ。  そんで俺は本当に生徒指導室で声を上げることになる。  ただしそれは歓喜の声なんかじゃねえ。  苦痛に悶えるうめき声さ。  担任と一緒に入った生徒指導室には、椅子が向かい合わせで置いてあった。  その片方に促されて座ると、1メートル先に担任が座るような格好でな。  俺が、今日はありがとうございますって言っている間、担任は両掌を組んだまま下を向いてたような気がする。  そんで、ずいぶんと長いため息を吐き出してから顔を俺に向けて言ったよ。  自分が何でいじめられるか分かってるか? ってな。  俺は考えたさ、でも答えなんて出てこねえ。  そりゃあそうだよな、いじめる側には理由があるだろうが、いじめられる側に理由なんてないと思ってたからな。  俺が何も答えられずに担任の顔を見てると、その視線の先で担任はいきなり立ち上がった。  そして何も言わずに、履いていた靴を脱いだ(・・・・・・・・・・)んだ。  次の瞬間、その靴下越しに担任の踵が俺の腹にめり込んでたよ。  防御態勢ってのは攻撃が予測されるからこそ成立するものなんだ。  自分の中に、攻撃されるかも、っていう危機感が存在しない状態だと、相手の攻撃に対して文字通り手も足も出ねえもんなんだ。  まともに回転蹴りを喰らった俺はうめき声を上げながら、椅子ごと後ろに吹っ飛んだ。  そりゃあ大人の本気の蹴りを食らったんだから当然だよな。  衝撃で意識が朦朧としてる中で自分が何で椅子から落ちてるのか考えたけど、まずもって何が起きたか分かりゃしねえ。  視界の向こうでは担任がものすごい怒りの顔で俺を見下ろしてる。  あれ、今日はなんでここに呼ばれたんだっけ、なんて考えたとき、鳩尾のあたりに痛みが走ってようやく蹴られたことが理解できたのさ。  でもここで柔道が役に立つんだ。  1年半の稽古のなかで何千回もしてきた受け身ってのはいつの間にか身体にしっかりと染みついていて、俺は蹴られた瞬間に反射的に身体をひねって後頭部を打つのだけは逃れてたらしい。  でも、それだけだ。  良かったことはそれだけだった。  担任の攻撃はそれだけじゃ終わらなかったのさ。  それからすぐ、倒れたままの俺の腹と後頭部を何度も蹴ったり踏みつけてきたんだ。  こっちは反撃することもできないままなんとかして身を守るのが精いっぱいさ。  俺は壁に後頭部を密着させることで頭を踏まれるのをガードしたんだが、そうすると今度は容赦なく背中と腹に蹴りが飛んでくる。  ところがこっちは毎日飽きるほど筋肉を鍛え上げてたからな、不思議とたいしてダメージはなかった。  痛みがなくなってきたおかげでだんだんと冷静になってくると、ようやく自分がいまリンチを受けていることが理解できてきてな、蹴りを入れるたびに担任が俺の名前を叫びながら何かをわめいているのが分かった。  その言葉に俺は愕然としたよ。  てめえなんかがこの俺に泣きついてきてんじゃねえよ!  お前はやられるだけの存在なんだよ!  悔しかったら自分で何とかしてみろよ、どうせできねえだろう!  痛いか? いくらでも泣きわめいていいんだぞ? 校舎には俺とお前しかいないから誰も助けになんて来やしねえぞ!  担任は自分の言葉に合わせて俺に蹴りを入れてたが、腕の隙間から見えるその顔は最初の頃のような怒りは消えてたよ。  目は確かに鋭く俺を睨みつけていたが、口角が上がったままになってた。  担任は本当に気持ち良さそうに俺を蹴ってたよ。  いじめに屈した無抵抗な人間が目の前に転がっていて、誰の目に触れることもなく好きなだけいたぶることができる。  誰に知られることもなく、罪悪感からも解放されて、ただ自分の力に酔ってるだけの大人が、動かなくなった中学生を好き放題蹴ってるんだ。  こいつはクソだ、と思ったが、それでも俺が無抵抗にただやられているのを何とかしたくて、こんな形で伝えているんじゃないかって思ったよ。  まあ、今考えりゃああの時点でまだそんなことを思ってる俺はそうとうおめでたかったんだがな。  でもよ、次に担任が言った言葉で俺はなぜ今こんなに暴力を振るわれてるか理解したんだ。  てめえの家のばばあが電話してきたせいでな、こっちは毎週楽しみに観てるテレビを見損なったんだ!  はっきりそう聞こえたとき、俺は必死で顔を両手で隠しながら、笑ったんだ。  もちろん担任には聞こえないようにな。  諦めとかそんなもんをはるかに超えた何がが心の中に渦巻いててな、それでも涙なんか一滴も出なかったよ。  蹴られながら、担任は俺が泣いて謝るのを期待してるんだって理解していたからな。  泣いたら俺はこいつに負けたことになる、って思ったんだよ。  それからも担任は俺を蹴り続けたが、絶対に顔は蹴ってこなかった。  まあ、両腕でしっかりガードしてたってのもあるが、腹と背中は何度も蹴られたり踏まれたりした割に、全く顔には蹴りが飛んでこなかった。  身体に響く鈍い音を聞きながら、ああ、やっぱ俺には救いなんてなかったんだってはっきり自覚したよ。  そしたらなんかさ、担任がテレビを観れなかっただけでこんなに幼稚に怒り狂ってるってことが面白くて仕方なくてな。  しかもこっちは鍛えているおかげでほとんど痛くもない。  でもこの蹴られ続けた30分の間に、完全に俺の心は針が振り切れたんだと思うんだ。  楽しくも悲しくもない、ただのヒトの形をした喋ったり動いたりする何か。  そんな人畜無害な化け物があの日、生徒指導室で生まれたんだよ。  ただ笑顔を貼り付けただけの道化がな。  担任はひとしきり蹴り続けたあと、俺が泣いてもいないことに舌打ちをひとつした。  それから俺を立たせると、今度は壁に押し付けて腹を殴り続けた。  俺はそのとき、担任が何で靴を脱いだか合点がいったんだ。  あれだけ蹴られたにもかかわらず、俺の緑色のジャージにはほとんど汚れが付いていなかったのさ。  これがどういう事か分かるよな、ママ。  そう、担任は靴のまま俺を蹴ると靴底の模様が俺のジャージにプリントされて暴行の証拠が残るって分かっていたから、靴を脱いだんだ。  そして顔面を殴らなかったのは、露出した部分に痣を残したくなかったから。  担任は冷静に証拠を残さないように計算して、場所と手段を選んだ上で俺をリンチしたのさ。  そしてもちろん最後の保険も忘れなかった。  30分ぐらい殴る蹴るの暴行をしたあとでうずくまる俺を見下ろしながら、担任はびっくりするぐらい爽やかな笑顔を浮かべてたんだ。  やり切った、っていう言葉がいちばんしっくりくるかな。  とにかくそんな気持ち良さそうな表情のまま俺に右手を差し出したよ。  俺がまた殴られるのかと身構えたら、ゆっくり首を横に振りながら、もう何もしないよ、って言うのさ。  そして身体をかがめて俺の手を掴んで立たせると、ジャージに付いた汚れを鼻歌まじりで取り始めた。  そして最後にガムテープで細かいほこりを取って、俺の周りをぐるりと一周してから、うん、完ぺきって言って笑ったよ。  それから俺に笑顔のままで、先生はいじめられたお前の話を聞いてあげてアドバイスして、その結果お前は周りを頼らずに自分で解決するという決意をした、そうだな? って言うのさ。  俺の心はピクリとも動かなかったな。  ただ不思議なことに、俺は笑顔になったらしい。  担任が突然、そうか、いい笑顔だ、お前は理解が早いな! って俺の肩を叩くんだよ。  俺は心の中で大泣きしてたよ。  ただ肝心のそれを表に出すシステムがついさっき完全に壊れちまったんだ。  それから担任は少しだけ真顔になった。  もしお前が今日のことについて嘘や間違った噂を流したら、もっと強く指導やアドバイスしなけりゃいけない。  俺はそんなことはしたくないんだ、って顔の近くで囁くんだよ。  俺はそれでも笑ってたらしくて、担任は安心したように俺を部屋の外に誘導した。  怪しまれないようにお前は先に体育館に戻ってろ、俺はタバコ吸ってから行くからなー、なんて、本当に何もなかったように扉の隙間から、バイバイ、って俺に手を振るんだ。  俺は体育館までの廊下や階段を歩きながら、ゆっくりと考えたよ。  もう他人からの救いがないんなら、せめて俺は自分がいちばん嬉しいと感じることをしよう、ってな。  そこで頭を巡らせたとき、俺のいちばん楽しいことが誰かを笑わせることだって気づいたんだよ。  ガキの頃からよく口と頭が回るせいで、俺は友達を笑わせることが多かったんだ。  周りの奴らが笑う、そうするとなんだか褒められたり認められたりしたような気持になってな、嬉しかったのさ。  どんなに頑張っても親父から褒められたことのねえ俺にとっては、自分の言葉に誰かを笑わせる力があるってのが唯一の自慢だったな。  だから俺は、もっと誰かを笑わせようって決めた。  辛いとかそんな感情は要らないから、どうやったらもっと人を笑わせられるかを真剣に考えようって思ったのさ。  そしたらなんか心が軽くなったような気がしてな、まあそんなのは狂った頭で考えたことだから他人には理解できねえだろうけど、俺はそのときからマイナスの感情だけが薄らいで、いつでも優しくにこにこしながら、時には自分を貶めてでも他人を笑わせることで存在価値を見出す、滑稽な化け物になった。  あとでその化け物の名前は道化っていうって知ったよ。  そりゃあ仕事として演じるなら割り切れるだろうがさ、こっちは金ももらわねえで自分の尊厳と身体を笑いに代えるために切り売りしてんだ。  苦しみの極致で生まれた道化は、他人を笑わせるスキルを磨きながら、狂っていることに気づかないまま歪に成長していくことになるわけさ。  ママ、そんな顔しなくても大丈夫だよ。  今の俺はもう狂ってなんかねえ。  過去の自分を冷静に分析できている時点で、あいつらが俺に植え付けた呪縛からは解放されてるよ。  ただ、やっぱりそうやって人を傷つけるのが当たり前の人間には、それなりの報いがあるんだ。  俺を苦しめた奴らにも、ちゃんと報いは待っていたのさ。  良かったらもう一杯、焼酎を入れてくれないかな。  ママも何か飲んでくれよ、もちろん俺のおごりでな。  俺と一緒にちびちびとやりながら、もうしばらく話に付き合ってくれると嬉しいな。  続く
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