第一話 出会いは潮風とともに

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第一話 出会いは潮風とともに

 遠くの夜空に明るみが差し始める時刻。静かな一室に聞こえるのは、高揚して波打つ胸の音。一歩、一歩と足を踏み出すたびに、古びた家屋の床がミシミシと音を立てる。 「ばか、静かに歩け、クリン」 「僕じゃないよ。セナのほうだろ」  クリンは後ろを振り返り、文句を言ってきた弟──セナを睨んだ。しかし言い争いをしている暇はない。気を取り直し、クリンは玄関に向かって忍び足を再開させる。  背中の大きなリュックが、行く足を鈍らせる。だがしかし、旅立ちの時はきた。  カチャリと鍵を回し玄関の扉を開ければ、冷えた空気が鼻を刺す。外はまだ薄暗かった。ゆっくりと扉を閉めつつ中を確認したが、静まりかえった室内がそこにあるだけ。どうやら両親はこの異変に気づいていないらしい。  無事に脱出に成功し、二人そろってニンマリとほくそ笑む。  それから見上げたのは、生まれ育った我が家である。くすんだオフホワイトの壁に、オレンジの屋根。年季の入ったその家には、二人を愛し育ててくれた父と母がいる。  まだ夢の中であろう見えない両親に向かって、少年二人は深々と頭を下げる。  ──父さん、母さん。行ってきます。  心の声に、返事はない。二人は顔を上げると、並んで歩きだした。 「こうして僕たちの冒険は始まったのである、と」 「うーわ。ありきたりな文章だなー」 「うるさいな」  無遠慮にこちらを覗き込んでくる弟のセナをあしらい、手元の日記をパタンと閉じる。これは、冒険の書だ。この書が完結を迎えた時、きっと自分たちの目的も果たされているだろう。  まだ薄暗い空の下、村の街道脇に植えられた樹の根に腰をおろし、クリンは隣の弟を盗み見る。セナは休憩タイムに早々と飽きてしまったのか、この旅の主役であるはずなのに、あくびをして樹に寄りかかっていた。  海よりも深い青色の短髪に、好奇心であふれた金色の瞳。弟のその顔立ちは、十六歳である一つ年上のクリンより、わずかに幼く見える。動きやすさ重視の服装は、彼の性格をよく表していた。  そんな明るくお調子者の弟には、誰にも言えない秘密がある。  一方、兄のクリンは色素の薄い茶色の髪を短すぎず長すぎずのところでセットし、深緑の瞳には知性と教養をにじませている。弟のセナとは違って白いシャツのボタンをしっかりと上まで閉め、羽織っている茶色の上着はどこか学者風だ。  弟が「動」なら、兄は「静」。  まさに正反対の二人だが絶妙なバランスがとれているようで、村でも評判の仲良し兄弟だった。  そんな二人は今日、旅立ちと言う名の家出を決行したのだった。彼らの目的は、とある探し物である。手がかりは何一つ持ち合わせていないが、それでも彼らには旅立たねばならない事情があった。  これがどれほど長い旅になるかは想像もつかないが、クリンは思う。絶対にこの弟をひとりにはさせないと。  朝の風には、潮の匂いがたっぷりと含まれている。見上げれば、数羽の海鳥が薄暗い空を泳いでいた。  クリンたちが最初に辿り着いたのは、隣の港町だ。  二人が住んでいるフェリオス村は、アルバ王国がおさめる小さな島々のうちの一つにあり、首都である王都へ行くには船に乗らなければならない。  この島で、唯一この港だけが王都へ行ける船が出る。  二人はその船で王都まで行き、そこからまた別の船で東の大陸へ渡るつもりなのだ。  朝が早いせいか、乗船チケット売り場はさほど混んではいなかった。   「一人二千ベラーか。高いな……」 「あ、でも十五歳以下は半額だってよ。俺だけラッキー」 「はいはい、よかったな。お子ちゃま料金で」 「……」  弟のほうからチッと舌打ちする音が聞こえたが、クリンは無視して財布を取り出す。物欲にさほど縁がなかったおかげか、幼い頃から貯めていたお小遣いがたんまりとある。しばらくは大丈夫そうだ。 「出港は三十分後だって」 「んじゃ、土産屋でもひやかしに行くか」 「まだ開いてないんじゃないか」 「港だから開店も早いんじゃないの。行くだけ行ってみようぜ。……っと」  そう言って(きびす)を返したセナは、背後にいた通行人にぶつかりそうになり慌てて足を止めた。相手のほうも条件反射で立ち止まってくれたおかげで事なきを得たが。  相手は同世代の小柄な少女だった。こちらに非があるというのに先に少女のほうから頭を下げてくれ、セナもつられてペコリと返すと、少女はそのまま宿屋街(やどやがい)のほうへ去っていった。 「浮かれすぎて注意散漫になるなよ」 「なってねーし」 「どうだか」  弟を叱咤しながらも、初めての旅に浮かれているのはお互い様だな、とクリンは心で苦笑する。軽く小突き合いながらも、気を取り直して土産屋へ向かったのだった。  土産屋につくなり、二人は目を輝かせた。小さな島の土産屋にしては品揃えも良く、手入れも行き届いているみたいだ。 「ボウズたち、旅行者かい」  陽気な声で話しかけてきたのは、カウンターにいる店主だった。  いかつい体に不釣り合いなエプロンが印象的なその男は、頭に髪の毛一本生やしておらず、「ボウズはおっさんだろ」とセナがすかさずツッコミを入れた。  店主は気のいい男だったようで機嫌を損ねた様子もなく、その頭にポンッと手を乗せて笑った。 「ははは。まぁじっくり見ていってくれや。最近は物騒だからな、うちでしっかり(そろ)えていくといい」 店主のその不穏な言葉に、兄弟は顔を見合わせて頷く。物騒の理由は誰もがわかっていることだ。 「リヴァーレ族、ここにも来たことがあるんですか?」 「いや。まだここに上陸した話は聞かないが、ふたつ向こうの島には現れたらしい」  リヴァーレ族。それは二十年ほど前から突然姿を現した、謎の生命体である。それはどこからかフラッとやってきて、無差別に人や家畜を襲う恐ろしい怪物らしい。クリンたちは実際にその目で見たことがなかったが、新聞の情報からその脅威は見聞きしていた。 「お前ら、観光するなら親のそばを離れるんじゃねえぞ」 「ありがとうございます、気を付けます」  と、クリンは当たり障りない会話をしながら商品を物色していく。陳列棚には携帯用のナイフや傷薬なども置かれていた。とは言え実際に遭遇した試しがないため、いまいち危機感が得られていないのだが。 「なんか買っとくか?」 「とりあえずは大丈夫かな」    弟の確認に、クリンは首をかしげる。  この時の二人はまったく想像もしていなかったのである。自分たちの旅がどれほど過酷で危険なものになるのかということを。  
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