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世界がぐるぐる回る。
全身が発光しているみたいに熱い。
ふと額にひんやりとした感覚を知って、クリンは重たい瞼を持ち上げた。ずるりと額のタオルが落ちる。
視界に映った金髪の美少女が心配そうにこちらを覗き込んでいる。安心させたくて微笑んでみれば、彼女は少し悲しそうに微笑み返した。
「無理しすぎですよ」
ごめん、と返そうと思って口を開けば、喉がカラカラに乾いていて声が出ない。
それに気づいてくれたのか、ミサキはベッド脇のテーブルから水の入ったボトルを手に取って、口元で傾けてくれた。
くらくらする頭に耐えてわずかに上体を起こし水を含めば、それはあふれて顎を伝った。
口元をタオルで拭ってくれた彼女の指先が頬をかすめる。それはひんやりと冷たくて、その気持ちのよさにうっかり頬をゆるませてしまった。
見上げると、柔らかな笑顔を浮かべるミサキの姿が視界いっぱいにうつって、風邪とは違う別の熱に浮かされていることを自覚する。
その熱を冷ますため彼女から視線をそらし、乾いた声で尋ねた。
「セナとマリアは……?」
「試練に向かいました」
「……ジャックさんは?」
「さきほどまでこの部屋にいましたが、同胞の方が目を覚まされたので、今はそちらの部屋にいらっしゃいます。大丈夫、その方は厳重に拘束していますし、ジャックさんの剣は私がお預かりしました」
ミサキの視線を追えば、近くの壁に立てかけられたジャックの剣が目に止まって、ひとつの不安が解消する。
安堵で目を閉じれば、瞼は重たく、再び開けることを億劫に感じた。
「私たちのことはお気になさらず、ご自愛ください。とても熱が高いんですよ」
「でも……。んっ」
冷えたタオルが額を覆って、突然のひんやりとした感覚にぴくりと反応すれば、閉じた瞼の裏で「ふ」という小さな微笑みがおりてくる。
「……」
「……」
そこで小さな沈黙が生まれた。
思えば、彼女と二人きりになったのはずいぶんと久しぶりだった。
正確には馬車の中で過ごしたことはあったが、彼女が熱を出していて看病に徹していたのでノーカンだ。
ジャックがずっと彼女を見張っていることもあったし、宿に宿泊することがなかったからフリースペースで逢瀬をすることもなくなっていたし。……いや、たとえ宿に泊まっていたとしても、おそらく自分はもう、そこには行っていなかったと思うが。
気まずさを誤魔化したくて寝返りを打とうと思ったのに、体は言うことを聞いてくれなかった。
けれどこの時、自分は無理をしてでも寝返りを打つべきだったのだ。
寝たふりをしてやりすごそうと、瞼を閉じたままで、数十秒。
不意に、唇に冷えた感触を知る。
目を閉じていてもそれが彼女の白い指先であるとわかった。心臓はたしかに動いたのに、頭の片隅で誰かが「拒め」と警告をしている。
けっきょくは体の気だるさを言い訳にして抵抗はできず。それをいいことに、彼女の指はツツツと、唇をなぞっていく。
くすぐったさに眉を動かしても、そんなのは抗ったうちには入らない。
なすがまま彼女にこの場の空気をゆだねていれば、やがてその冷たさは離れていった。
直後にギシッとベッドがきしんで、さらりと落ちてきた髪の毛が頬をくすぐる。
指先の代わりにと唇に落とされたのは、柔らかく湿った感触。
軽く触れただけのそれはすぐに離れて温度を失ったのに、瞼を閉じたせいでかえって増した五感に深く刻みこまれてしまった。
身体中が燃えるように熱くて息もできないほど鼓動が脈打つ。とてもじゃないが、寝たふりなんてできなかった。
「……これは、ずるいんじゃない?」
病気で寝ている相手に、と。なけなしの理性で非難すれば、彼女の意地悪を含んだ笑い声を聞く。
「視線は簡単にそらせますけど、これなら逃げられないかなと思いまして」
「……」
思い当たる節を間接的に指摘されてしまい、その非難は行き場を失う。これ以上悪あがきはさせてもらえなさそうなので、クリンは観念して重たい瞼を開けた。
見上げれば、悲しげに微笑んでいる彼女と目が合う。
今まで互いにあきらかになるような言葉は贈り合わなかったし、それを良しとしない空気を作ってきた自覚はある。
なぜなら答え合わせをしたその瞬間から、待ち受けているのは茨の道だ。
それならば初めからなかったことにしてしまったほうが良い。そう思って自分はその芽をこれでもかと摘み取ってきたのに。
「きみは記憶が、ないんだよ?」
「……はい」
「ミランシャ皇女には、婚約者がいるんだよ? 記憶が戻った時に苦しむのは君じゃないか」
「でも今を生きているのは私です」
「……」
きっぱりと言い放ったその言葉は、クリンにとってはただ非合理的で、非生産的で、根本的解決に少しも至らないものだった。
「僕は、君には苦しんでもらいたくないんだ」
「……」
この言葉で、言いたいことは伝わったはずだ。これ以上の議論に意味はない。
クリンは再び瞼をおろして、会話の窓をパタンと閉じた。
わずかな沈黙ののち、シャットアウトした世界で人が動く気配を感じた。
「……クリンさんは優しいですね。優しくて、理性的で……残酷です」
それだけ告げたあと、その気配はかすかな足音とともに部屋を出ていった。
静かになったひとり残された部屋で、クリンは心の中に溜め込んだ色々な感情を吐き出すように、荒々しいため息をついた。
「どっちが残酷だよ」
ことを起こさなければ、互いに傷つかなくて済んだのに。
わずかにみじろぎすれば、彼女が乗せてくれたタオルが額からずるりと落ちた。
体は高熱に浮かされながらも、心の奥深くにある芯の部分が氷のように冷え切っている。
すべての情報を遮断するかのごとく目を閉じたのに、鮮明に残された彼女の唇の感覚に、やるせなさと情けなさで泣きたくなってしまった。
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