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それは生物兵器が現れる少し前のことだった。
負傷者の応急手当に夢中になっているあまり、クリンもミサキもその視線に気付くことができなかった。
つかつかとミサキのもとへやってきて、彼女の結んでいた髪の毛を乱暴につかみ上げる男がいた。
「きゃっ……」
「やっぱりそうだ! ミランシャ皇女だ!」
男の大きな声に、広間の視線が一斉にミサキへと注がれた。
その男はミサキの顔をまじまじと見つめ、にやりと怪しい笑みを浮かべた。男の格好は政府や兵士のようなものではなく、ただの一般人のように見える。
「俺は商売で昔から帝国に行き来してるんだ。遠くからミランシャ皇女の顔も見たことがあるのさ!」
「痛っ……!」
「二億五千万ベラーは俺のもんだ!」
ざわっと室内が色めき立つ。
その瞬間、男は背後から体当たりを食らい吹っ飛んだ。
「やめてください! 彼女は違います!」
男にぶつかっていったのは、もちろんクリンである。
ミサキの前に立ちはだかると、床に倒れた男だけでなく、周囲にも聞こえるように大きな声で言い放った。
「彼女は似ているだけで別人なんです、いつも間違われて本当に迷惑だ! 手当の邪魔をする人は出て行ってください!」
「このクソガキ……っ!」
「クリンさん!」
男は起き上がると鬼のような形相でクリンに襲いかかった。勢いよくつかみかかると馬乗りになって、クリンの頬を一発、二発と殴りつけていく。
「やめてください! 彼は関係ありません!」
ミサキがうしろから止めに入るも、男の腕に振り払われて床へと投げ出されて終わった。もちろんクリンもなんとか男の腕をつかんで抵抗を試みるのだが、体調不良が災いし思うように力が入らず、簡単に振り払われてまた頬を殴打された。
「やめて! だれか……誰か止めてください!」
ミサキの声に反応するものはいなかった。
周囲は怪我人と医療従事者である。軽症の者はといえば、争い合っている二人よりもミサキが本当にミランシャ皇女かどうかが気になるようで、ジロジロと好奇心たっぷりの目を向けているだけ。どちらかと言えば彼女を誰が捕らえるか、自身にもチャンスがあるかどうか、うかがっているようにも見えた。
「やめろ!」
そこに止めに入ってくれたのは、ミサキにとって思いもよらない相手だった。馬乗りになる男をうしろから羽交い締めにし、勢いよく横へ突き飛ばしたのは、ジャックだった。
「子ども相手に恥ずかしくないのか!」
ジャックは抵抗する隙を与えまいと、ひれ伏した状態の男を腕で押さえつけ、周囲へ言い放った。
「見せものではない! この子どもたちは救護活動を手伝っていたんだぞ!」
「ジャ、ジャックさん……」
ぼうぜんとするミサキとクリンに、ジャックは厳しい口調のまま言った。
「君たちがここにいては場が混乱するだけだ。退室しなさい」
「……」
暗に、早く逃げろと言っているのだ。
ミサキはいち早く理解して、クリンを立ち上がらせると誰とも目を合わせないように広間の入り口を目指した。クリンの頬は腫れ、唇が切れて流血していた。
さきほどまでクリンが寝ていた部屋に戻って鍵をかけてしまおう。ミサキがそう思って広間のドアに触れた、その時だった。
ドォォオン!!
鼓膜を震わすような轟音と同時に、世界が割れてしまうのではないかと思うほどの大きな振動が教会を襲った。
「きゃあ!」
「なんだ!?」
一瞬にして広間は恐怖に包まれた。人々は口々におののき、動けるものはみな立ち上がって広間のドアめがけて押し寄せてきた。
その波に飲まれるようにして、ミサキたちも広間から外に出れば、さほど遠くもない距離で煙が立ち上っているのが見えた。その煙の中心地には、地から空までおもむろに伸びた大きな影。人の姿をしたその巨大な影に、クリンたちは見覚えがあった。
「クリンさん、あれって……」
「もう一体いたのか……」
その正体が南シグルスで見たそれとまったく同じだということに気づき、教会の前でぼうぜんと立ち尽くしていると、ジャックが追いついてきた。
「まさか北でも開発していたとはな」
「ジャックさん。あの人は?」
「しつこく暴れるから黙らせてきた。今ごろ教会の者が反省室に閉じ込めているだろう」
ジャックはクリンの額に手を当てて、顔をしかめた。
「まだこんなに熱があるのに。無茶なことをしたな」
「すみません……」
「まあいい」
それだけ言い終えると、ジャックは遠くにいる生物兵器を見やった。
その横で、ミサキは念のため深くフードをかぶっている。
「帝国に情報が入っていないということは、あれは南シグルスのとは違ってシグルス大国が独自で開発したものかもしれないな」
「独自で……」
「おおかた帝国を出し抜くつもりだったのだろう。同盟が聞いて呆れる」
クリンたちの目に、人々の逃げ惑う姿が映る。
リヴァーレ族が町から離れて安堵したのも束の間、市が運営する研究施設から突然姿を現した、人型の巨大な生き物。対象が変わっただけで、当然、人々の畏怖が消え去るわけもなく、散り散りに逃げ出していた。
そこへ、銃をかまえたシグルス兵たちがやってきた。彼らは統率のとれた動きで道へ並ぶと、住民へ向かって声をはりあげた。
「民衆よ! 案ずることはない! あれは政府が秘密裏に開発した対・リヴァーレ族用の生物兵器である!」
その声に逃げ惑っていた人は足を止め、懐疑的な目を向け始めている。彼らの言葉が本当かどうか、にわかに信じられないのだろう。
兵士はなおも呼びかけを続けた。
「すべてはソルダート・ロコ・ニーヴ氏の指示通りである! みな、落ち着いて行動するように!」
おお……と、人々の目に小さな希望が垣間見える。だが盲信的に安堵することはできず、半信半疑といった表情で巨大な生物を見守る者ばかりであった。
「ソルダート……」
ぽつりと、その名を口にしたのはミサキだった。
「ソルダート・ロコ・ニーヴ……!」
彼女は視線を宙に彷徨わせ、もう一度その名を口にしたとたん、まるで雷でも撃たれたかのようにびくりと体を震わせた。
クリンは瞬時に理解する。その名前は、彼女の婚約者のものだと。
彼女の白い手が伸びてきて、きゅっとこの手をつかんだ。
その手は頼りなげに震えていた。だけど、本来その手をつかむ権利があるのは他の男だ。離さなければいけない。……そう思ったのに、振り払うことはできなかった。
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