第十九話 ミランシャ皇女の真実は

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 ミサキの言葉が落とされたあとは、しんと静まり返った部屋にさらなる沈黙が訪れる。  クリンの予感は的中した。  一ヶ月前、あれは叡智(えいち)の国ラタン共和国でコリンナの口から生物兵器というキーワードが出た時のことだ。あの日、彼女は混乱する記憶の中でこう言っていたのだ、『わたくしが殺さなければ、計画を止めなければ』と。  あれ以来そのキーワードが出てこなかったし、北シグルスの小屋で『守りたかった』『争わないで』と平和を願う言葉ばかりこぼしていたから、すっかり忘れてしまっていた。  では誰を?という疑問が当然生じる。  はじめは、おそらく生物兵器の破壊のことを指しているのだろうと思っていた。  だが、違う。相手はあの婚約者だった。 「婚約式で彼を殺せば、同盟交渉は決裂。そして生物兵器の計画は阻止できる。……そう考えたんじゃない?」  違う?と聞けば、彼女のブルーグレイの瞳が大きく揺れて、肯定を意味していた。 「でも……だったらはじめから婚約なんて拒否すればよかったのに、君がそれを受け入れたのは、どうして?」  当然の疑問をぶつけてみても、彼女は答えようとはしてくれない。    「君は聖女撲滅運動の第一人者と呼ばれているよね。でも生物兵器の開発は反対した。とても矛盾しているように思えるんだけど……君は、何を考えているんだ?」 「……」  彼女は沈黙を守り続けている。なおも口を閉ざしている彼女の表情は、言いたくない、というよりも……何かに耐えているようだった。  なぜ、婚約者を殺すという選択肢を選んだのか。  この沈黙の間に、記憶をなくしていた時の彼女の言葉を、頭の引き出しからもう一度引っ張り出してみる。  ラタン共和国で初めて生物兵器の話が出た時、彼女は言った。『何かをやらければいけなかった』、『あせりより悲しみに近い感情が強かった』と。    彼女は婚約者を殺さなければいけなかった。そして婚約式に向かう途中の馬車でジャックたちの組織に襲われて、彼女は苦痛から逃れるために記憶を放棄した。  その記憶は五年が経過してソルダートと再会したことで、蘇ることになった。つまり、ふたをしていた悲しい記憶も蘇ったということだ。  そう、彼女には悲しい出来事があったのだ。その悲しみの中で彼を殺す選択肢しか選べなかった。  だとしたら、その悲しみの正体はなんだろう? 「ね、もう一度聞くよ。なにか……苦しいことはない?」 「……」  間は悪く。  ノックの音が沈黙を破った。 「……」  ミサキは「時間切れですね」と言って、入り口側に立っていたジャックのほうを見やった。ドアを開けるのは護衛騎士の仕事である。 「失礼いたします。ソルダート様より夕食のご招待がございます。お連れさまもご一緒に起こしください」    ジャックがドアを開けると、その向こうから執事の声が言った。そのまま立ち止まっているところを見ると、案内をしてくれるつもりのようだ。  ミサキが小さく頷いたので慌てて彼女の手首をつかみ、立ち上がるのを阻止した。  まずい。このままでは彼女は‘決行’してしまう。 「クリンさんは、ここに残ってください」 「いやだ」 「もう、いいのですよ。……今までありがとうございました」 「……っ!」  耳元でささやかれた最後の言葉は、自分にしか聞こえないくらい小さくて、悲しい音だった。  と同時に、彼女は髪を結っていたかんざしを引き抜くと、クリンの膝めがけて振り下ろした。 「……っ!」  右の膝、真っ直ぐに突き刺さったそれに、クリンは声のない悲鳴をあげる。激痛が走って、右足全体にしびれを感じた。  かんざしについた血液を赤いドレスの裾で拭うと、それを再び髪の毛に刺し、ミサキは今度こそ立ち上がった。 「ミサキ、待っ……」 「さようなら」  自分も立ちあがろうと思った。  だが、膝の痛みに絶えきれずに床に崩れてしまった。 「ジャックさん」  立ち上がった彼女は、ネオジロンド教国の言葉で秘密裏にこう言った。 「わたくしがこと(・・)を終えたら、あなたは本懐を遂げてくださいね」 「──っ! いやだ、ミサキ!」  痛みを無視して、なんとか立ちあがろうと力を入れる。けれどジャックに斬られた肩の痛みと体調不良も手伝って、どうしても体が言うことを聞いてくれない。  ジャックは何も言わず、ドアに向かって歩いてくるミサキのほうをじっと観察しているようだった。 「くっ……」    ふらついてガラスのテーブルに手をつけば、そこに置いてあった水差しとグラスが派手に倒れた。水浸しになったテーブルから、ぽたぽたと水滴が落ちる。それが絨毯に吸い込まれていくのが目に入った時、ふと、彼女の言葉が思い出された。 『食べるものはもちろん、水の一滴ですら口にしてはいけません』 「…………」  なんで? と。  こんな時だというのに疑問がわいて、それと同時に今まで聞いてきた言葉の数々がふってきて、情報という情報がパズルのようにはまっていった。 『ミランシャ皇女は椅子に腰かけたまま』 『聖女の首が並ぶのを顔色ひとつ変えずに眺めていた』 『やめてって言ってるのに』 『声を返して、わたくしにもしゃべらせて』 『5年ぶりだというのに、まただんまり(・・・・)ですか』 『聖女反対運動、あれは子息が扇動していたな』 『わたくしは彼女たちを救いたかっただけなの』 『殺さないで』 『今ここでわたくしの首をとっても、復讐を終えたことにはなりません』 「────っ!」  気づいてしまった。  彼女の‘悲しみ’の正体に。 「ジャックさん! ジャックさん、ダメだ!」  心のままに呼び止めたのは、ジャックの名前。ドアに手をかけたジャックは怪訝そうにこちらを振り返った。  彼女たちをこのまま行かせてはいけない。 「彼女を殺しちゃダメだ! 復讐の相手は彼女じゃない!」 「ジャックさん」  ミサキは後ろ姿のまま、ジャックを促す。 「ミランシャ皇女は聖女の死なんか望んでいなかった! お願いします、ジャックさん! 彼女を止めてください!」 「……っ」  ミサキがキッとこちらを睨んだ。どうして勝手なことをするの、とでも言いたげに。  だけどその瞳は大きく揺れていて、彼女の動揺がありありと伝わってくる。だからこそ、今の言葉が正解なのだと知る。 「妹さんたちを殺したのは彼女じゃない! ジャックさん、僕のお願いを聞いてください!」  ミサキはその顔からすべての感情を消し去った。このままジャックも置いていこうと判断したのか、颯爽と廊下へ出て、ドアを閉めようとした。  だが、その彼女の腕をつかんで部屋に引きずり戻したのは、他ならぬジャックだった。
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