第二十話 悲しみの末に

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 ふと目を開ければ、ガス灯の照明を最小限に落とされた薄暗い部屋。見知らぬ天井に不安が募って、ぼんやりする意識で弟の名前を呼んでみる。が、呼びかけは喉の痛みのせいで声にならなかった。  そんなクリンに応えるように、影がひとつ動いた。こちらを覗き込んでくる美しい女性に、思わず心臓が跳ねる。 「大丈夫ですか?」  このシチュエーション、二度目だなあ。そう思いながらも、シグルスの教会のベッドで見上げた彼女とは違って、いまだ真っ赤なドレスを(まと)い、その瞳には憂いを宿していて、あの時とは何もかも変わってしまったことを表しているようだった。 「よかった……。いる」  彼女がここにいる。生きている。  ただそれだけで、胸は震え、息が詰まる。  発した言葉は焼けつくような喉のせいで聞き取れなかったはずなのに、彼女は眉を下げ、悲しげに笑った。彼女の原型をしっかり確かめておきたくて、手を伸ばせば、ひんやりとした手が包み返してくれる。  他の三人はどうしたのか咳き込みながら(かす)れた声で尋ねると、ジャックが今後のことで何やら話があるとのことでマリアを呼んだため、セナも話し合いに同伴しているのだとか。  もしかして、という期待の眼差しに、ミサキから小さな(うなず)きが返ってきて、じんわりと胸が熱くなるのを感じた。  ジャックに想いが伝わったことが、ただただ嬉しい。 「それと……。彼から謝罪をいただきました。今まで苦しめてすまなかったと」 「……そっか」  和解というには語弊があるだろうが、ジャックとミサキの間にも折り合いがついたようだ。  彼はきっともうすぐ自分のもとから居なくなるだろう。だがその別れには自身の希望が託されているはずだ、何も不安に思うことはない。もしかしたらこのまま二度と会えなくなるかもしれないけれど……それでも、彼に‘生きる理由’ができたなら、それでいい。  ……だけど。 「ごめんな……」  気がかりなことが一点、解決されないまま残ってしまったことだけが、悔やまれる。  突然の謝罪にミサキは困惑していたようだが、その謝罪の続きを言葉にするのは躊躇(ためら)われた。  けっきょく、彼女の苦しみは誰にも理解されないまま、明るみに出ることがないのだ。彼女が声高らかに自身の身の潔白を訴えたところで、証拠もない以上、ソルダートが認めるはずはないだろう。そして帝国側から訴えるという方法も、避けなければならない。  今後ニーヴ政権は衰退の一途をたどる。そこでジパール帝国はどう出るだろうか。彼らは窮地に立たされることになる。なぜならニーヴ一派を政権から引きずり下ろすであろう今後のシグルスが、生物兵器の開発を推し進めるはずがないからだ。そしてそのまま新たな政権によって軍事同盟は白紙に戻され、シグルスの科学力を欲する帝国側は再度交渉テーブルを設けなくてはならなくなる。  ここでミランシャ皇女がソルダートからの被害をわめき立てれば、帝国側はシグルスに責任を追求することで有利にことが運ぶかもしれない。だがそれは彼女が望んだ平和から遠ざかってしまうことになる。万が一、生物兵器の情報が帝国に渡ってしまったら、さらなる被害が生まれかねないのだ。  つまり、ミランシャ皇女は今後の平和のためにひたすら‘黙秘’をしなければならない。彼女は帝国に帰ることもできず、死人として生き続けることを余儀なくされたのだ。聖女撲滅運動第一人者というレッテルを貼られ続けたまま。  ……いや。ひとつだけ、彼女が生きて帝国に戻れる方法はある。身の潔白を訴えることもできる。  だがそれはとてつもない賭けであり、命の危険を伴い、その後に成功する確率は極めて低いという、ハイリスクローリターンな行動である。  それは、彼女がレジスタンスを率いて帝国でクーデターを起こし、軍事国家そのものを崩壊させてしまうという手だ。だが、この方法は絶対に選択させてはいけない。これ以上彼女の身が危険にさらされるのは嫌だ。 「クリンさん。……あなたが謝ることではありません。結果的に、生物兵器は失敗とはいえ完成してしまいました。今後は他国からスパイが集まり、そのレシピの争奪戦になるでしょう。ですがあれはどの国にも渡してはいけないものです。このままシグルスが葬り去るべきなのです。……立場の不明な帝国の姫など、死んだままのほうがいい」 「……」  さすが、というべきだろうか。彼女はすべてを理解しているようだった。だが、彼女が納得してくれたことを手放しで安堵できるほど、簡単な問題じゃない。  なぜなら彼女の苦しみは昇華されないまま一生続くからだ。今後、彼女は幾度となく自責の念にかられ、悪夢に苛まれ、失った命を(おもんばか)って涙を流すだろう。その苦しみから、誰も彼女を救うことはできないのだ。 「……ごめんな」 「もう。それはこちらのセリフです」  役立たずの自分がバカの一つ覚えのように謝罪を繰り返していると、ミサキは呆れたように笑った。久しぶりの笑顔に心臓が揺さぶられるのを感じながら、しかし謝られることなどひとつも思い当たらず、首を傾げて続きを乞う。  彼女はすぐにその笑みを消して、その顔に(かげ)りを落とした。 「痛い思いをさせてしまって……申し訳ありませんでした」  ソルダートの屋敷でのことを言っているのだろう。膝の傷はもうマリアが治療を施してくれたから痛みもないし、おそらく痕も残っていないはずだ。  ただ……あの時互いに生じた‘別れの痛み’は、きっと消え去ることはない。  それでも今、彼女のひんやりした手は自分の熱い手を包み、少しずつ温度を溶かし合っている。ここに、いる。それだけでじゅうぶんだった。  どうってことないよ、と伝えれば咳が出て、しだいに意識が重たくなってきた。ミサキがトントンと背中を叩いてくれて、それが呼吸をラクにしてくれる。  それなのに、こちらの背中に手をのばしたせいで前屈みになった彼女の胸元に、きらりと光るネックレスが視界に入って、一気に不快感を覚えてしまった。 「…………」  次の言葉は、きっと平常時なら出なかった。 「ねえ」 「はい?」 「いつまで着てんの」 「……」  ぱっと目を見開いたミサキの全身を包んでいる、くどいほどの赤。やたら露出度の高い軽薄なドレス。 「なんで赤? ミサキはパステルカラーが似合うのに……。おまけに露出度高いし。裾のとこスリットいる?」  胸元には大粒なだけでまったく品の感じられない真紅のルビーのネックレス。赤、赤、赤。それがまるで死の宣告のように見えるから腹立つのであって、決して他の意味はない。  だから次の行動にも意味はない。  咳き込みながらおぼつかない手で触れたのは、鮮血をイメージさせるようなオックスブラッドのイヤリング。 「僕ならブルーダイヤモンドを贈るけどな」  うん、彼女のロシアンブルーの瞳なら、そっちのほうが絶対似合う。  ゆっくりとそれを耳たぶから外せば、それは手からこぼれてカツンと床に転がった。  その忌々しいものを視界から消し去ったことで小さな満足感を勝ち取れて、ふっと息がもれる。安心したおかげで心地よい眠りにつけそうだ。目を閉じればすぐに睡魔が襲ってきて、素直にそれを受け入れる。  瞼の裏には珍しく真っ赤になってしまったミサキの顔が残って、「この赤は悪くないな」なんて、ちょっとした優越感に浸ることができた。
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