第二十二話 コスタオーラ大陸

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 だがその結界を見ても、司教にまったく動揺は見られなかった。 「まだまだ未熟ですね、マリア・クラークス」  その手から生み出された光は正面ではなく床へと放たれた。音もなく吸収されたと思ったら、それは突然マリアの足元から現れたのだった。結界の中。なんの予兆もなく床下から現れた光の矢は、まっすぐにマリアの顔面へと狙いを定める。 「くっ……!」  すぐさま反応したのは一歩前にいたセナ。彼女を突き飛ばしたそのタイミングで、その光はセナの右腕をかすって天井へと突き刺さった。 「セナ!」 「かすっただけだ……」 「結界の下にまで意識がなかったようですね。このように、結界が必ずしも安全地帯とは限りません。中には結界を破る術を用いる者もいます。お勉強になりましたか?」 「へっ、さすが歳食ってるだけあるなオバサン。‘年の功’ってやつか」  減らず口を叩くセナの顔は、痛みに歪んでいた。右腕の肘より数センチ下の部分。かすっただけだというのに血が流れ、まるで電流が走ったかのような痺れを伴っている。あいかわらず彼女の力はすさまじい殺傷力があるようだ。  マリアが慌てて治癒術をかけるも、やはり効果はないようで、クリンが代わりに止血をし始める。  そう、セナに聖女の治癒術は効かない。もはや見慣れた光景だった三人とは対照的に、司教はその瞬間を目の当たりにして初めて表情を変えた。 「まさか……効かないのですか、治癒術が」  三人の沈黙が表した肯定に、司教の表情は驚きを残したままで笑みを浮かべた。 「ではもしや、ご自身を治療なさったことは?」 「はあ? そんなこと……」  できるわけねーだろ、と投げ返そうとしたところで、シグルスで負傷した時のことを思い出し、セナは口をつぐんだ。隣のクリンも同じようにあの時のことを思い浮かべていた。 「あるのですね。……これは驚きました。いったいどうやって出産したのでしょう」 「!」  司教がこぼした言葉を拾って、クリンはひとつの予想が正解だったのだと確信する。 「やっぱり弟は、聖女の子どもなんですね!?」 「……おそらくは」  こんな事態だというのに、弟の素性がひとつ明るみになったことに確かな手応えを感じ、高揚する。やはりセナは聖女の子どもだったのだ。自身の傷を癒した力、巡礼で聖石(せいせき)を浄化した力。聖女の子どもだというならすべてが納得である。   「あなたは弟の母親をご存知なんですか?」 「ええ、存じていますよ。かつての親友でした。彼女も自身の傷は治せるのに、他人からの治癒術は受け付けない不思議な体でしたね」  セナの傷口を見つめる目は懐古しているのか、温かいものに変わった。初めて見るそのぬくもりのこもった瞳に戸惑いながらも、クリンはなおも尋ねた。 「その方は……青き騎士という人が仕えていた聖女なんですか?」 「ええ。名をリヴァルといいます」 「!」  セナとマリアはパッと顔を見合わせた。その名前に聞き覚えがあったからだ。どこで聞いた名前だったかとセナが思考をめぐらせていたが、それは司教の言葉によって中断された。 「まあよいです。こちらのなすべきことは変わりません」  司教はその手に氷の柱を生み出した。うしろでアレイナの息をのむ声が聞こえる。  マリアの結界術が司教の前では意味をなさないことを知った今、できることはたったひとつ。それは反撃である。 「させるか!」    セナが真っ先に動き出した。狭い部屋、中央にあるベッドを片手で持ち上げ、ひっくり返しつつ司教めがけて放り投げた。いわゆるちゃぶ台返しの要領である。  それをよけるため司教が一歩下がった、その隙をついてベッドの裏側に飛び蹴りを入れる。そのまま司教ごと押しつぶす勢いで窓に叩きつければ、ガラスが派手に割れた音が響いた。コテージの丸太の壁にもヒビが入り、もう一度衝撃を与えれば崩壊してしまうほど粉々だ。  が、そこに司教の姿はなかった。  瞬時に振り返ればやはり彼女はもう、移動術でマリアの背後にまわっていた。  だが司教の用事はマリアではない。アレイナの前に立ちはだかるトーマの剣に軽く触れると、それは瞬く間に氷の膜で包まれていく。二秒、たったのそれだけで、剣は氷像のように凍ってしまった。当然、自身の手を守るため、トーマは剣を落とすしかない。 「いやっ!」  アレイナは抱きかかえられたまま騎士にしがみつき、死を覚悟する。  だが司教の術が放たれることはなかった。 「くっ……」  ぽたぽたと血液が床に滴る。崩れ落ちて膝をついた司教の背中には、黒いダガーが突き刺さっていた。いつの間に投げたのか、間にいたクリンもマリアもその速さを目視することができなかった。 「セナ、殺すな!」 「急所は外してある」  セナは司教の背中からダガーを引き抜いた。傷口から鮮血が溢れ出し、司教は痛みに動きを止める。その両腕を後ろから拘束し、セナは言った。 「年寄りの女に手荒なことして悪いとは思うけど、あんたはそれ以上の罪を犯してきたんだろ、文句は言いっこなしだ。さっさと帰ってお仲間さんに治癒でもしてもらったらどうだ」 「……ふっ。さすがリヴァルの子。残忍なところは親子そろってというわけですか」 「はあ? おまえに言われたくねーし」  会ったことのない母親に似ていると言われて感じるのはただの不快感だけである。おまけに似ていると言われた部分はただの中傷でしかない。  だが、アレイナの話ではそれ以上の残酷な所業をこの女はしてきたはずだ。 「ふふっ……いいでしょう、いったんは引きます。ですがわたくしとの約束をお忘れなきよう、青き騎士殿。あなたの大切なものたちを失いたくなければ、必ずや巡礼を終わらせるのです」  振り返った司教は笑っていた。瞬時に思い出されるのはゲミア民族のテントで起こった出来事。マリアの鎖骨に突き刺さった太い氷の柱。彼女の悲鳴。  衝動的にこみあげる怒りを自覚してセナは司教を睨んだ。だがすぐに司教は光に包まれて消えてしまったのだった。
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