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「俺は死ぬのはいやだ。お前はどうなんだ?」
「……あたし、だって……死ぬのはやだよ。でも、どうしたらいいかわかんないもん!」
「だから逃げろって言ってんだろ」
「できないよ、そんなこと!」
マリアにとって、聖女とは人生そのものだ。生まれたときから決められていた運命だった。それを否定するということは、自分自身を否定することと同義である。
それが洗脳だと言うのなら、極論を言ってしまえばすべての子どもがそうと言えるのかもしれない。みな育った環境で植え付けられたものはあるだろう。兄のクリンだって、もしもあの両親のもとに生まれなければ医師になろうとは思わなかったかもしれない。
だが、マリアの場合はそれとは少し事情が異なる。多くの子どもたちとは違って彼女には`選択肢'が与えられていないのだ。
奴隷の子どもとして蔑まれ、劣悪な環境下におかれてもなお、彼女が聖女であり続けようとするのは、彼女が他の逃げ道を知らないからだ。そして聖女として死んでいくしか道はないのだと思い込んでいる。
セナはそれが歯がゆくてしかたなかった。
「わかんないとか、できないとか簡単に諦めんな。つらいなら逃げたっていいんだ」
「いいわけないでしょ!」
「なんで? なんでおまえだけが許されないんだよ。教会が勝手に命令したことだろ。知らねーよって突っぱねてやれよ」
「そんな……っ」
「聖女、聖女、聖女、どいつもこいつもうるせえんだよ。勝手に連れてきて勝手に教育して勝手に使命なんか与えやがって。奴隷と一緒じゃねえか、胸糞悪い。なんで助けるほうばっか消耗品にならなきゃいけねえの? 世界を救え? アホか、変な力に頼ってないで救われたきゃ自力でなんとかしろ。自分ができないことを人に押しつけんな。そう言って、おまえはおまえのために拒否していいんだよ。それが無責任だって言うなら全部俺のせいにしていい。貸し三つ分、まとめて返せ。命令にしか従えないなら教会じゃなくて俺に従え」
マリアは泣いていた。ぽろぽろとこぼれる涙を見て、自分が泣かせてしまっているのだと思ったら胸は痛む。だが、自分が切望するその笑顔で処刑台に立つというなら、一生泣かせてでもそこから引きずりおろしてやる。
一気に言葉を吐き切ったあとは、酸素を求めて静かに呼吸を整える。その間も、マリアからの返事はなかった。ただずっとうつむいて、あふれでる涙と必死に戦っているようだった。
薄暗い夜の港を月明かりが照らしている。耳に聴こえるのは押し寄せる波の音。
さすがに体が冷えてきた。セナは上着を脱いでマリアの肩にかけてやった。いつぞやも、こんなふうに上着を貸してやったことがあったが、あのときは、まさかこんな絶望が彼女に襲いかかるとは想像もしていなかった。
羽織った上着を胸のところでギュッと握りしめたマリアの痛ましい姿を見下ろして、言いようのない気持ちに襲われる。
慈愛か庇護欲か。それとも別の何かか。そんなことはどうでもいい。
気がついたらマリアを抱きしめていた。我に返ったのは、四秒後。驚いて一瞬だけ身を硬くした彼女が頭をこちらに預けてきて、この状況を受け入れたと知った時。
こんな時だというのに、心臓は変な音を立てている。だけどせき止めていた涙を決壊させてしまった彼女の心情を案ずれば、心臓は激しい痛みに変わった。
おそるおそる、後頭部を撫でてみる。そうすると彼女はいよいよ声をあげて泣き始めた。
「……っ、もう、いやだ……。こんなのって、ひどいよ……」
「うん」
「なんで……なんでこんな思いばっかりしなきゃいけないの……。もう、やだよぉ」
「……そうだよな。ふざけてるよな。だからこっちから見限ってやればいいんだよ。楽しく生きようぜ」
「いいの……かな。逃げて、……いいのかな……っ?」
「いいに決まってんじゃん。生きろよ。おまえの人生はおまえのもんだ」
「……う、……ふ、うぅ──っ」
そのあとは、わんわんと泣き続けるマリアの背中を、ただただ抱き続ける。波の音がマリアの慟哭をかき消してくれて助かった。胸の痛みに押しつぶされて死んでしまいそうだったから。
彼女が泣くのは嫌いだ。ずっと笑っていてほしい。打ち震える細い肩を抱きしめながら、セナは彼女が笑っている未来を脳裏に思い描いてみた。
プレミネンスから逃げ切った彼女は聖女の力を押し隠して、どこか小さな村でミサキと二人、ひっそりと暮らしているかもしれない。本当は故郷のフェリオス村に連れて行きたいところだが、司教が執拗に自分を見張っている以上、そこは危険だ。彼女たちとは別れたほうがいい。
だが常識の知らない聖女と帝国のお姫様。きっと生活には困るだろうが、この二人ならその村の人たちに愛されて、世話を焼いてもらえるはずだ。そのうちにやりたい仕事も見つかるだろう。マリアなら失敗を物ともせず、努力で突き進んでいくはずだ。
やがてそんな彼女たちも大人になって、いつか伴侶を見つけるかもしれない。もしかしたらミサキのことはクリンが迎えに行くということも考えられる。マリアは泣きながら、でも笑って祝福してくれるだろう。
彼女はそのまま幸せに生きて、笑って生涯を終えるのだ。
そんな未来があったって、いいはずだ。
月光に照らされて、きらきらと水面が光る。遠い空の向こうで幾億もの星たちが地上を見下ろしていた。こんな幻想的な空間は想像した未来のように現実味がなくて、胸のうちにはびこる恐怖や不安だけが浮き彫りにされているような感覚を覚える。
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