第二十五話 絶望の淵で

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 クリンがまだ一歳になったばかりの頃だ。  ハロルドとルッカはクリンを連れて、アルバ諸島の北に位置するイオ大陸、その最南端にあるビルーナ岬へ訪れていた。  そこは多くの薬草の自生地で、夫婦は時折そこを訪れ、薬草採集をしていたのだ。  その日は雲ひとつない晴天だった。  せっせと薬草を採集していたルッカの脇で、クリンは暇をもて余してオレンジ色の蝶々を追いかけていた。蝶々が向かった先、ここより十メートルほどの近距離で、クリンはソレを見つけた。  ──あれ、なあに?  母親に答えを求めて指をさせば、ルッカはクリンを抱きかかえ悲鳴を上げた。すぐに駆け寄ってきたハロルドも、ソレを発見するなり護身用の短剣をかまえて妻子をうしろに隠した。  こちらを見つめじっと座り込んでいるソレがリヴァーレ族であることは、胸元で光る赤い石が物語っていた。人のような造形、皮膚や黒い髪の質感はまさに人間そのもののようではあったが、目はあきらかに人のそれよりも大きく、不揃いな四肢は枝のように細かった。  あいにくと、ここにいるのは自分たちだけ。身を守る術をもたない夫婦は一人息子を抱えて震え上がった。  だが、二人はすぐに異変に気がついた。  あろうことか、その泥人形はその腕に赤ん坊を抱き抱えているではないか。そしてソレは、涙を流しながらこちらに助けを求めているように見えた。  勇気を出して歩み寄ったのは、ルッカのほうだった。ハロルドの制止を理解しながらも、母親という生き物である自分にとって、赤ん坊を無視することはできなかったのだ。  クリンをハロルドに任せ泥人形に近づいてみれば、ルッカは再び悲鳴をあげそうになった。ソレの腹部には引き裂かれたような傷があり、身体の内部が裂け目から滴り落ちていたからだ。  泥人形は苦しそうに顔を歪め、ぶるぶると震えた手で赤ん坊をルッカに差し出してきた。  じゅうぶん戸惑ったあとで、おそるおそるその赤ん坊を受け取る。  おそらく生まれてまだ数時間と経っていない、しわくちゃで血塗れの赤ん坊。通常の週数よりも早めに生まれたのか、クリンを初めて抱いた時よりもずいぶん軽かった。 「その赤ん坊が……セナよ」  母の視線を受けて、セナはようやく伏せていた目を動かした。表情こそなかったが、その顔色は悪かった。おそらく自分と同じように、リヴァルの城で見たあの出産シーンを思い浮かべたのではないかと、クリンは思った。 「でも……それだけで、どうしてセナがリヴァーレ族の子どもだってわかったの? 生まれた瞬間を見たわけじゃないんでしょ?」  クリンの質問に、父は言いにくそうに答えた。 「その時のセナは、今とは違っていたからな」 「……違うって?」  父のセナを見つめる目が、父親から医者のそれに変わった。おそらく精神状態を気にしてのことだろう。だがセナの無言の催促を受けて、父は再び語り始めた。  姿形はそう人間と大差なくとも、その赤ん坊が普通の人間ではないということは、すぐにわかった。  まず瞬きをしない。宙を見つめたままの瞳はオッドアイで、片方は金色だったがもう片方は炎のように赤く、こうこうと光を放っていた。  無垢とは違った表情のない顔立ちは、赤ん坊というよりも人形に近く、眠りもしなければ泣きもしないようだ。  目の前の泥人形の様子からみても、この赤ん坊がリヴァーレ族から生まれた生き物であるということは明白だった。  ルッカが赤ん坊を抱き上げるなり、その泥人形は驚いた行動に出た。  ゆるゆると頭を下げて、両手と額を地面に押し付けてひれ伏したのだ。  赤ん坊を見つめる泥人形の瞳の中に確かな愛情を感じ取り、ルッカはそれが懇願(・・)であると知った。息を引き取る自身の代わりに我が子を託そうとしているのだと。  次の瞬間、その泥人形は自身の胸に指を突き刺し、赤い石を引き抜いた。  ──ダメよ!  ルッカの叫びよりも早く、泥人形は人の形を保っていられず砂となって崩れ落ちた。  怪物はなぜか、自らその命を絶ったのである。 「……リヴァーレ族が……セナを人間に預けて自害したってこと?」 「そうよ。死期を悟ってというよりも、何かから逃げていたように見えたわ」 「何かから……」  リヴァルだ、とクリンはすぐに思い至った。  たしかセナのことは『盗まれてしまった』とリヴァルが言っていた。  話から推測するに、あの出産のあと、その泥人形は聖女の力を使って城から逃げ出したのではないだろうか。リヴァルの城とビルーナ岬は目と鼻の先だ。じゅうぶんありえる。  そして泥人形は、たまたま遭遇した人間にセナを預け、リヴァルに居場所を特定されないように自身の命を絶ったのかもしれない。 「セナを、守るために……」  それが愛ではなくてなんなのか。  まだ子どもであるクリンにだって、その泥人形がたしかな母性をもってセナを愛したのだと理解ができて、胸が震えた。
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