第二十五話 絶望の淵で

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「たしかに、セナを初めて見た時は戸惑ったさ。さっきも言ったとおり、おまえは少しだけ、人とは違う赤ん坊だった。いつルッカやクリンに害が及ぶかもしれないと思ったら、無防備に受け入れることはできなかった。……それは本当だよ」  なるべくセナが傷つかないよう、父は言葉を選んでいるようだった。 「だが、三日間の船旅を経て、この家にやってきたセナはそこで初めて泣いたんだ。クリンの時よりかは小さく弱々しいものだったが、生まれたての赤ん坊となんら変わらない声と表情で、おまえは泣いた」  それがセナの産声だ、と父は言った。セナはランジェストン家を訪れて初めて人間として産声をあげたのだと。 「まるで運命だと思った。この子はランジェストン家の次男になるべくして私たちと出会ったのではないかと。そして、この子が人として生きようとしているのだと……そう思えて仕方なかったんだ」  多少の気がかりは残りつつも、その後セナは一般の子どもと同じようにすくすく育っていった。最初に抱いていた不安など、いつしか消え失せてしまうほど。 「お前はクリンとは違って本当にやんちゃで手のかかる子だった。生まれたての時には想像もつかないくらい感情豊かに育ってくれた。ワガママばっかりで手は焼いたが……お前のおかげでランジェストン家はいつも明るい家だったよ」 「……」 「なぜ大切だと思えるのかと、そう聞いたな。答えは簡単だ。十五年、ともに生きてきた歴史があるからだ。おまえが笑ってくれるのが嬉しかった。なついてくれるのが可愛かった。成長が誇らしかった。……おまえのことを愛しているんだ」 「…………」  言葉の応酬がいったん途切れて、重たい沈黙が部屋を支配する。  セナは下を向いたまま、その目に涙を浮かべていた。  クリンは静かに立ち上がって、割れたティーカップを拾い上げた。母のルッカが「私が」と言ってくれたが、自分がやりたいと思ったから断った。  両親の想いがどれだけセナに届いたかはわからない。だが、少なくともクリンの心には伝わってきた。  それは打算も思惑もない純粋な愛だった。リヴァルのとは違う、相手を(おもんばか)る深い愛だ。 「セナ。おまえをここまで不安にさせてしまったこの不甲斐ない両親を、許してくれとは言わない。だが、その生から目を背けることだけはしないでほしい。大切なのはどう生まれたかではない、どう生きていくかではないだろうか。時間をかけてもいい、目をそらさず考えてごらん。おまえはちゃんと自分の答えを見つけられるはずだよ」 「……」  父の言葉に、セナは小さく二度、頷いてくれた。そのあとはただ、声もなく涙を流すだけ。  セナが負った心の傷は、今ここでどれだけの言葉を用いても完全に取り除くことはできないだろう。それでも、セナにはこの両親がいる。そして兄がいる。  これからの人生で彼が自身の重い枷に押し潰されそうになった時、今まで以上に支えてやれる家族でありたい。クリンはそう願った。  それからしばらくの沈黙ののち、「疲れたでしょうから今日は休みなさい」と母のルッカが立ち上がったことで、話し合いは終わった。  父がセナを診察室のほうへ連れて行き、ルッカはソファにいる女の子たちのほうに向かった。クリンは気にしつつも、全員のティーカップを片付けにキッチンへと向かった。 「お客様を放置してしまって申し訳なかったわね。改めて、母のルッカです。あの子たちがお世話になったみたいね」 「とんでもありません。こちらこそ、クリンさんとセナさんには本当に助けてもらってばっかりなんです」 「ありがとう。狭い家だけど、好きなだけ泊まって行ってね」 「はい……。ありがとうございます」  ミサキが立ちあがろうとしたのをルッカが制し、少女たちと視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。  視線の先はマリアだ。 「あなたが聖女様なのね。息子たちのお友だちとして、敬語じゃなくてもいいかしら?」 「は、はい、もちろんです」 「セナが騎士になったって聞いたけど迷惑かけてない?」 「とんでもないです! 何度も命を救われました」 「あの子が〜? 旅先でも食べることしか考えてなさそうだけど」  さすが母親である。正解を叩き出したルッカの言葉に、ミサキとマリアは顔を見合わせて笑った。   「それで、あなたたちは体調に問題はないのかしら?」 「はい、大丈夫です」  ミサキとマリアがそろって首を縦におろすのを、ルッカはじっと眺める。 「とても疲れた顔をしているわ。あなたたちも、酷いものを見せられたのでしょう? 怖い思いをしたわね」 「……」  突然の温かい言葉に面食らって、二人は返事を忘れてしまった。  ルッカの慈愛に満ち溢れた目は、やはりクリンの母親である。こんなふうに、真綿で包み込んでくれるような温かい眼差しを大人に向けられたことはあっただろうか。  その目を見ているとしだいに肩の力が抜けていくのを感じた。と同時に見ないふりしていた感情もじわじわと染みのように広がっていく。  たしかに、リヴァルの城で見たあの光景はショッキングだった。セナほどの衝撃ではなかったにせよ、女である自分たちにとってあの光景は見るに耐えない、恐ろしいものだった。  気がつけばマリアの目には涙がにじんでいた。それにつられて、ミサキも目頭が熱くなるのを我慢できなくなってしまった。 「す、すみませ……」 「いいのよ。無理して止めちゃだめ。しっかり泣いて、心を休ませてあげましょうね」  一度流れた涙はせき止めておくことはできず、勝手にあふれ落ちてしまうものだから、二人して両手で顔を隠してしまった。  泣きじゃくる少女たちが落ち着くまで、ルッカは彼女たちの頭を静かに撫でてやった。
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