第二十六話 ランジェストン家での休息

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 満天と呼ぶには雲が重い夜の空。  悪夢にうなされて目が覚めたら、時計の針はまだまだ深夜をさしていた。アレイナの術は日に日に精度を増しているようだ。  マリアは一人、湖を見ていた。ここはセナが連れてきてくれた湖の展望所だ。セナが作ったという木製の手すりに手をかけて空を仰げば、月がぼんやりと雲の奥で光っていた。  近くの樹から鳥が飛び立って、びくりと肩が震えた。思わず後ろを振り向いたが、そこには誰もいなかった。  セナかと思った。……よかった。  ホッとして湖に向き直ったマリアの脳内は、セナのことでいっぱいだった。  リヴァルの城で見たアレは衝撃だった。セナが今、どれほど苦しんでいるのかと思ったら胸は痛む。  だが、こんな時だというのにマリアは別のことに気をとられていた。  ──セナは、あたしのことが好きなのかな?  あの城でのできごとを思い返せば、そう予想することは容易い。リヴァルの言葉、彼の態度、最後の言葉。  そういえばあの時、初めて名前を呼ばれた。いつもチビだのポンコツだのと呼んでくるので、むしろあのサルには人の名前を覚えるほどの知能もないのではと考えていた。だからこそセナがあの時に発した「マリア」という三文字がやたらと耳に残った。  しかし恋愛経験はつゆほどもないので、気のせいだと言われればそんな気もしてくる。その疑問を胸に抱えたまま次にどんな顔をしてセナと向き合えばいいのかわからなかった。  もしその予想がアタリなら、なかったことにしたい。マリアはそう願っていた。もしも、もしもセナがその想いを開いて見せてきたのなら、彼を傷つけなければいけないのだ。それはいやだ。  自分は聖女だ。恋愛はご法度というほどではないが、あまり歓迎はされないというのを知っていたし、恋愛が任務の妨げになることもあるらしい。もしも任務ができなくなってしまったら……。そう考えただけで自分の存在意義がガラガラと崩れてしまいそうだ。  だから、これ以上の関係には踏みこみたくない。よって、自分は気づかないフリでやり過ごすのだ。 「いやいやいや。待って、違うでしょ……」  独りなのに思いっきり声に出して、マリアは手すりにおでこを乗せる。  ここまでどっぷり考え込んでおいて、自分が一番悩まなければいけないことはそこじゃないだろとセルフツッコミを入れた。  マリアには悩まなければいけないことが山ほどあった。  本来ならば今一番悩まなければいけないのは、リヴァルのことである。そう、巡礼だ。  セナのこの調子だと、巡礼はまだまだ先になりそうだ。しかしリヴァーレ族の脅威に苦しんでいる人々には申し訳ないが、ペンダントも奪われた今、自分にできることはない。  そして……それがちょうどよかったというのが正直なところだ。  なぜなら巡礼の結末は自分にとっても望むところではないからだ。  ある種の生命力を断つという術。そんなもの、本当に存在するのだろうか。実際にその術を発動させたら、リヴァルはどうなってしまうのだろう。自分は……人殺しになるのではないだろうか。  そこまで考えてゾワっと鳥肌が立った。  いやだ。いくらリヴァルがあんなにひどいことをしていた人であっても、人を殺してしまうなんて恐ろしすぎる。  無責任だというのはわかっている。自分が死ぬ覚悟はとっくにできているのに、人を殺す覚悟なんてなかった。任務に対する覚悟が足りないと言われればそれまでだが。  クリンならば、なんて言うだろうか。命の尊さを何より重んじる人だ。巡礼をやめろと言うかもしれない。今この状況でそれを言われたら自分はなんて答えるだろう。いやだ、言わないでほしい。聖女じゃなくなった自分に価値などない。でも、人を殺すなんて……。 『させねえよ、そんなの。俺がやれば解決することだ』  まるで自分をすくいあげるように浮かんできたセナの声に、じわりと目頭が熱くなる。  彼ならば迷うことなく自身を血の道に置くだろう。それくらい今の彼は危うい。  だけどあの言葉を聞いて、ホッとしてしまった卑怯な自分がいることも認めなくてはいけない。セナの怒りに自分の使命を預けようとしていた。だがそれではダメなのだ。 「は……。聖女失格だぁ」    幸いまだ時間はある。セナが調子を取り戻すその時まで、じっくり考えなくてはいけない。聖女として騎士としての、正しい道を。 「……」    そう結論づけて、ふと、セナがリタイアをするという考えはまったく浮かんでいなかったことに気づいて、「だーかーらー」と手すりにガンガンおでこをぶつける。  自分がここまで厚かましいとは思わなかったが、だがやはりセナは騎士をリタイアなんてしないはずだ。きっと辛苦の中から這い上がってきてくれるだろう。そしてそれを待っている自分がいる。……いや、もちろん聖女としてだ。当たり前である。  うっかりまた‘そっち’系の思考に流れてしまいそうになって、おでこをガンガンぶつけながら軌道修正する。客観的にはギャグに見えるだろうが、マリアにとっては本気の悩みだ。 「……頭痛い」  物理的か別の要因か定かではないが、マリアは手すりにおでこを預けたまま、いまだ何一つ答えを見いだせないことに頭痛を覚えていた。  重たい雲の隙間から星がチラチラと覗き見していたが、マリアの視界に映ることはなかった。
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