第二十六話 ランジェストン家での休息

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 さざ波が耳をくすぐる。空は青く、白い雲がゆるやかに流れていく。セナは遠浅の海で仰向けになりながら、心地よい揺れに身を任せていた。  じゅうぶん落ち込んだ。じゅうぶん苦しんだ。まさか自分がこれほどまでに打ちのめされるとは思わなかった。  だが今ですら、自分がなんていうカテゴリの生き物なのか、どれだけ考えても答えは出ない。いや、そもそも一生この生を肯定することはできないかもしれない。  この命はリヴァルのオモチャだった。リヴァルの好奇心と遊び心が生んだ粘土細工のような命だ。食事も排泄も涙を流すことも、いま呼吸をしているこの瞬間ですらリヴァルを喜ばせるための行為である。いっそ止めてしまいたい。こと切れたこの肉の塊を見たら、リヴァルはさぞ落胆することだろう。  そう考えては、この思考こそが人間そのものだということに気がついて、どう転んでもリヴァルを喜ばせるオモチャなのだと自覚する。あっさりと手中に落ちて仲間を傷つけてしまえるほど、自分のすべてはリヴァルのものなのだ。  苦しい。息をするのがつらかった。  だけど、それ以上にじゅうぶん救われた。  ランジェストン家はあいも変わらず慈悲深く、温かい家庭だ。父と母は、こんな形容できない生き物に対してずっと愛情を注いでくれていたのだ。どれほど不安があったのだろう。自分は子どもだから想像の域を出ないが、きっと並大抵の覚悟ではなかったはずだ。  そしてクリンは……あの兄は、あんな事実を知ってもなお、なんら変わらない態度でそばにいてくれる。俺が気持ち悪くないのか、と聞いてみようとしたけど、やめた。怖かったからじゃない。兄が傷つく顔をするのがわかっていたからだ。  たとえこの命がまがい物だったとしても、ランジェストン家から与えられた愛は本物だった。それだけで、じゅうぶん生きていく理由になる。  まだ痛みはあるけれど、もういいや。そろそろ立ちあがろう。   「……よし」  ひと泳ぎしたら、無理矢理にでもメシを食うのだ。そう決意して、セナはちゃぷんと音を立てて海に沈んだ。  透明な水の中。息継ぎをせずに沖まで進んだら小さな魚を発見する。チョロチョロと逃げまわる魚を追いかけて、包み込むようにゆっくりと手を伸ばしてみる。  これは夕飯にはならないな……なんて考えていたその時、なにかに勢いよく体を捕まえられて、ものすごいスピードで水面へと引き上げられてしまった。 「ケホッ……」 「何やってんだよ、バカ!」  驚いたせいで水を飲み込んでしまった。不規則になった波に揺られながらケホケホと咳き込めば、目の前には兄・クリンの怒った顔があった。そういえば、海に来ることを誰にも言っていない。いなくなったと思って、心配したのだろうか。  悪い、と素直に出てきた言葉は、クリンの切羽詰まったような声にかき消された。 「帰るぞ!」 「え、でも」 「いいから帰るんだよ!」 「や、もう少し泳ぎたいんだけど」 「……」  ぷかぷかとその場に浮かびながら、兄は眉を寄せた。まともに会話を返せたのが久しぶりだから驚いたのだろうか。 「セナは……泳ぎに来たのか?」 「は?」  きょとんとした兄の顔に、こちらもきょとんと返す。海に入ったんだから当たり前だろ、という意味で。 「……なんだよ、もう」  はぁああぁぁ、と盛大にため息をついて、クリンは先程の自分と同じように仰向けになった。しかし自分とは違って、兄は上半身もしっかり洋服に包まれており水を含んで重たそうだ。  なるほど。とんでもない勘違いをしてくれたらしい。 「ふ」  思わず笑みがこぼれたら、バシャンと水飛沫をあげて兄はひっくり返った。そういえば久しぶりに笑った。そう気づいたのは自分だけではないようで、このなんでもない笑顔を見て泣きそうになった兄の顔に、さらに笑いがこみあげる。  重いんだよ、愛が。 「クリン。あの浮島まで競争」 「は!? や、待って僕、服着てるんだけど」  なんか言っている兄を置き去りにして、浮島を目指して泳ぎ始める。  おかしい。笑ったはずなのに涙が出る。喉が痛い。  小さな浮島は二人が寝そべったら鳥が一羽止まるスペースしか空いていなかった。  雲がゆるやかに流れていくのを眺めながら、セナはぽつりと言った。 「悪かったな。また暴れて」 「……アレは、セナのせいじゃない」 「……」 「それに僕は、そのあとのお前の行動のほうが悲しかった。あんなこともう二度とやるな」  あんなこと。おそらく自身の腹にダガーを突き立てたことだろう。あの時はあれしか方法がなかったのではとは思いつつも、クリンの痛みを理解して、セナは再び謝罪した。 「クリン」 「ん?」 「俺は……リヴァルを殺すよ」 「…………」  クリンからの返事はなかった。だが、どんな答えが返ってきたところで自分の気持ちは変わらない。  リヴァルを殺す。……もう、それしかこの生を許せる方法が思いつかなかった。自分はあのおぞましい行為から出現した生き物である。むしろリヴァルのことを否定し続けるためにはこの命すら許したくないというのが本音だ。  それでも、生きている。生きていく。 「それにあのポンコツ聖女じゃ荷が重そうだしな。人殺しなんかと一番遠いところにいるじゃん」 「……おまえ、マリアのこと」  バシャンと水をかけて、セナはその続きを遮った。「うわ」と口に入った海水を吐き出している兄を横目で流しながら、セナは「帰ろ」と立ち上がった。 「セナ、誓いを破るのか?」 「……」 「それは本当にマリアを守るためなのか? 私怨じゃないって言えるか? ギンさんに報告ができるのか?」 「やなこと言うね、おまえ」 「コリンナさんに話してみよう。父さんとも話し合ったんだ。きっと力になってくれる。結論を出すのはそれからでも遅くないだろ」 「……。クリンにまかせるよ」  セナは会話を切り上げて、海へと飛び込んだ。クリンの提案に反対する理由も気力も、今の自分には持ち合わせていない。  いや、もしかしたら……本当はすくいあげてもらいたかったのかもしれない。暗い感情にしばられ続けている自分のことを。  その日の夕方、腹が減ったと独りごちたセナを見て、両親はセナの好物をテーブルいっぱいに並べてくれた。  期待のまなざしを受けてつい食べすぎてしまったけれど、まっさらになった食器を見たルッカがキッチンの隅で涙ごらえているのを知って、さらに胸がいっぱいになった。  「明日からは俺が作るよ。俺のほうが料理はうまいし」となるべくいつものトーンで茶化してみせれば、母はペシッとこの腕を叩きながら、怒って泣いて、そして笑った。
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