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翌日。クリンが心地よい眠りから目を覚ますと、隣のベッドにセナがいないことに気がついた。服を着替えて部屋を出てみれば、廊下に座りこんだ弟を発見してギョッとする。
セナはミサキたちの部屋のドアに寄り掛かって、うつらうつらと船をこいでいた。
「お前、何やってんだよ?」
慌てて起こすと、セナはものすごく眠そうに、しかめっ面を浮かべた。
「……朝か」
「そうだよ。お前、こんなところで寝てたのか」
「んー、……ねみい」
「ふ。寝ぼけすぎだろ」
「…………」
何も知るよしもないクリンをジトッと睨んだとき、二人の声を聞き付けたのか、ドアが静かに開いた。
「あんたら、女子の部屋の前で何やってんの?」
開口一番、マリアが不審なものを見る目付きでこちらを見下ろしてくる。
「あら、おはようございます。お二人ともよく眠れました?」
ミサキもマリアの後ろから何食わぬ顔で挨拶してきた。
廊下に座り込んだまま見上げてみると、どうやら彼女もあまり眠れなかったらしい、その顔は眠たそうである。そう言えば昨夜の夕食は、お腹が空いてないと言ってあまり食べていなかったような気がする。
セナと目が合うと、彼女はそれでも最上級の美しさで微笑んだのだった。
出発の支度を済ませ、宿を出る。
フロントで店主に鍵を返す際、セナはダンッと鍵を叩きつけ、「すげえ良い宿だったわ。あらゆるところに宣伝しとく」とそれはそれは良い笑顔を浮かべた。
店主の顔が引きつっていたことにクリンもマリアも「?」マークを浮かべていたが、セナは終わったことをあれこれ説明するのが面倒くさくて口を閉ざした。
次の経由地へ向かうため、馬車の停留所へ向かっている時だった。
後ろから駆け寄ってくる足音がしたのでクリンは振り向き、そして息をのんだ。
「きみ……」
駆け寄ってきたのは、昨日の物乞いの子だった。相変わらずボロボロの衣服を身にまとって、メッセージボードを下げている。
しかし昨日とは違って、その子の片目には、眼帯が施されていた。
「その目……」
まだ十分傷が塞がっていないのか、その眼帯は血が滲んで真っ赤に染め上がっている。
ふと、胸元のメッセージボードに目が止まって、クリンは頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
『ぼくは、ことばがしゃべれません。
かためも みえません。
びょういんに いく おかねもありません。
たすけてください』
「飼い主が、味をしめてしまったようですね」
「……っ!」
ミサキの沈んだ声が、胸を突き刺す。
「こんな、つもりじゃ」
この子が自分からこんな怪我をするはずはない。おそらく昨日の報酬を喜んだ飼い主が、これならもっと稼げるのではないかと、この子を傷つけたのだ。このメッセージボードにはその目論見がありありと表れている。
自分が深く考えずに施しなんか与えたせいで、こんなことになってしまうなんて。
「クリンさん。これ以上の施しは……」
「わかってる」
クリンはミサキの声に簡単に返すと、膝をついてギュッとその子を抱き締めた。
「ごめん」
こんなつもりじゃなかった。
ただ、この子を喜ばせてあげたかっただけなのに。
「ごめん……ごめんな、本当にごめんな……っ」
抱き締めても、その子はなんの反応も示さなかった。
それが悲しくて、やるせなくて、そして恐ろしかった。
「……もう行かないと」
クリンは涙をこらえて立ち上がった。その子の目が、まっすぐに自分を捕らえている。だが、クリンはその視線を振り切って歩き始めた。
施しをすることは、もうできない。あの子を一生面倒見てやることもできないくせに、中途半端な自己満足でかける優しさなど、なんの意味もないのだと知った。自分は子どもだ。そして、無力だ。
不意に、バンッとリュックを背負った背中に衝撃を受ける。
セナの手だ。そのあとミサキの手が、続いてマリアの手が、同じようにクリンの背を叩いた。
三人の無言の激励に、だがクリンは何も返すことができなかった。
馬車に乗り込む手前で、クリンは町を振り返った。
奴隷の行き交う町。すさんだ町。自分はここで味わった苦さを、一生覚えておこうと思った。
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