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ミサキの剣幕に、アレイナの騎士たちは警戒していたが、アレイナはそれを片手で制し、ようやく勝ち誇った笑みを浮かべた。
「卑しい奴隷の子。せっかくお母さまと同じお庭に帰してさしあげようと思ったのに、わたくしのまごころを受け取っていただけなくて残念だったわ」
「……」
奴隷の子。そのキーワードはマリアを打ちのめすのに十分だったようだ。キュッと唇を結んだままうつむき、屈辱に耐えている。彼女の様子から察するに、その言葉は嘘ではないのだろう。
クリンの脳裏には、国境沿いで出会った一人の少年奴隷が浮かんでいた。口をきけない少年は、主人の命令で物乞いを繰り返していた。
あの子を見つめていた時のマリアの胸中は、どれほどの痛みだったのだろう。
そのお庭に帰す、とアレイナは言った。聖女としてではなく、奴隷として生きるのがふさわしいと、彼女はそう告げたのだ。
「では、さようなら」
言いたいことを言い終えて、アレイナはさっとドレスを翻す。その背中を引き留めたのは、我慢がもうとっくに限界を超えていたクリンだった。
彼女が馬車を襲わせたのだと知ってからずっとずっと怒りを抑えてきたが、彼女自身が導火線に火をつけてくれたのだからもう耐える必要はなさそうだ。
「ずいぶんとご苦労されているようですね、お父上の侯爵様は」
「……」
ずっと傍観していたはずのクリンが突然声を上げたので、アレイナはおろか、こちらの仲間までもが困惑した様子だ。
「ヒマをもて余している間に、町でいろいろ噂話を聞きましたよ。アレイナ・ロザウェル様。ロザウェル侯爵家のご嫡女が、家門や聖女という肩書きを盾に四方八方でずいぶんと好き放題されているそうで、お父上は火消しに大変だって」
暇だったから、というのは嘘ではないが語弊がある。クリンはマリアたちの試練の合間になんとかアレイナに一矢報いてやろうと、必死に情報を集めていたのだ。
あのトーマという騎士が、アレイナの実家はこの教会に多額の寄付金をおさめていると言っていた。つまり、アレイナの家族はこの町に何かしらの縁があると考えられる。それならば情報のひとつやふたつ、集めるのは簡単だと踏んだのだ。
結果としては大収穫だったわけだが。
「こんな話もお聞きしましたよ。巡礼先の教会にも多額の寄付を納めているのは、もしや聖女としてのお力にご心配がおありなのでは、と」
「根も葉もない噂がお好きなようね……」
振り返ったアレイナの顔は、予想どおりの表情だった。だからクリンはこれでもかと言葉を投げつけてやった。
「噂の真偽はどうかは知りませんが、あなただって人を貶めるのがお好きなのだから、おあいこでは? 人を傷つけて優越感に浸るのはそんなに気持ちがいいですか? 身分が守ってくださるから何も怖くないですしね」
「……なんですって」
「いいですね、貴族って。身分も地位もとっぱらったらマリアに勝てるものが一つもないような女性でも、恥ずかしげもなくふんぞり返っていられるんですもんね。僕なら恥ずかしくて二度と外には出られませんが」
「ク、クリン、もういいってば!」
クリンにしては珍しく好戦的な態度と、たたみかけるイヤミの数々に、あせるのはマリアだ。だが、クリンの怒りはもう止めようがない。
「娘の不始末を揉み消すのもお貴族様の嗜みなんでしょうか? あなたが今までマリアに対して行ってきた侮辱の数々を、お父上が聞いたらさぞ喜んでくださるんだろうな」
「……っ」
自分だけでなく父まで非難されたことがさぞ悔しかったのだろう、アレイナはつかつかと歩み寄ると、クリンの頬を叩いた。避けようと思えばできたが、クリンは甘んじてそれを受け入れた。
「あなた、名は」
「クリン・ランジェストン。立憲君主制国家に生まれ育ったため身分はありませんが、あなたと違って恥ずかしい生き方はしておりません」
「そう……覚えておくわ」
激昂するかと思われたが、言葉もないほど悔しかったのだろう。アレイナはそのまま何も言わずに去っていった。その場に後味の悪い空気だけを残して。
町じゅう、どこへ行っても聖女の話題でもちきりだった。突然この大きな都市を包み込んだ、神々しい光の件だ。マリアが儀式の際に放ったあの光の強さや美しさを、みな目の当たりにしていたようだ。そのどれもが聖女を褒め称え、敬うような言葉であった。
当の本人であるマリアとその一行は、浮かない顔をして宿へ向かっていたが。
限界を超えていたのだろう、宿へ着くなりセナはベッドへ倒れ込んだ。
呼吸は荒く、全身汗だくである。意識が朦朧としているのか、呼びかけても返事は曖昧だ。
「ひどい火傷だ……。 僕で治せるかな」
いくら家が診療所で、父の手伝いをしていたと言っても、クリン自身はまだ医者ではない。ここまでのひどい火傷を一人で治療するなんて初めてだ。
「私も手伝います」
「クリン、あたしはお医者様を呼んでくるよ」
「ありがとミサキ。ごめん、マリア。ありがたいんだけど、それは大丈夫」
マリアが医者を呼ぶと申し出てくれたが、クリンはセナの服をハサミで切りながら断った。
「セナの傷、不思議なことにうちの薬草園で栽培してる薬草しか受け付けないみたいで、他の薬は効かないんだ。お医者さんを呼んでも無駄足になってしまう」
「そ、そうなんだ。ごめんね、あたし……ほんと迷惑かけて」
マリアらしくない意気消沈した声に、クリンは振り返る。彼女は今にも泣き出しそうだ。
「気にしないで。セナが勝手に手伝ったことなんだから」
「でも……。それに、あの」
「え?」
「アレイナの……ことも。ほっぺ、痛かったでしょ。ごめんね」
「……」
クリンは治療の手を止めて、体ごとマリアに向き直った。
マリアの体は小刻みに震えていた。セナのことは気になるが、先に彼女の心につっかえているものを取り除く必要がありそうだ。
「どうしてマリアが謝るの?」
「だって……。本当のことだから。あたし、奴隷の子だから」
「……」
おそらく、誰にも知られたくなかったのだろう。悔しさと悲しさの中にたっぷりの羞恥を混えたような表情で、彼女は俯いている。
「あたしの母親、仕えてた飼い主に手をつけられて……あたしを身ごもったんだって。生まれてすぐに聖女の力があるってわかって、飼い主は多額のお金と引き換えにプレミネンスにあたしを売ったって……教会の中では有名な話で」
「……そうなんだ」
「だから誰もあたしなんかの騎士になってくれなかった。奴隷の子に仕えるなんて騎士の恥になるって……何度も何度も断られて」
「うん」
「しょうがないって、ちゃんとわかってたのに。クリンもセナも知らないから……あたしのこと普通の女の子みたいに接してくれるから、嬉しくて……言えなくて」
「うん」
「言えばよかった。言えばセナはこんな目に遭わなくてすんだのに……っ。アレイナのことも、馬車で襲われたのだって……あなたたちまで、巻き込んでしまって……。ごめんなさい」
声は震えすぎて、ところどころ聞き取れなかった。一気に吐き出して一息ついたマリアに、クリンは首を傾げる。
「マリアの生い立ちとセナがこんな目に遭ったことと、どんな繋がりがあるんだ?」
「それは……だって。あたし、隠してたんだよ。奴隷の子だってこと。軽蔑……したでしょ」
「……」
マリアが生まれ育った環境のせいで著しく自己評価が低いことは、よくわかった。だが、今の言葉は少し悲しい。
「マリアの生い立ちを知っていたら、僕らが友人にならなかったと言いたいんだ? セナも騎士にならなかったと。それは、僕たちに対する侮辱だ」
「! 違……っ。違うよ!」
「僕は、聖女だから、生い立ちがどうだからと、値札を見て君と一緒にいるわけじゃないよ。ミサキだってセナだってそうだよ。今の言葉は、君を想う人たちの心を蔑ろにしたものだ」
「そんな、つもりじゃ」
マリアはいよいよ泣き出してしまった。
「君がセナに言ってくれたんじゃないか。人に受け入れてもらえないからって卑屈になるなって。そんな奴らは鼻で笑えって。あれでセナも僕もすごく救われたんだよ」
マリアはぶんぶんと首を振っているが、その優しい言葉を、自分自身にもかけてやってほしいとクリンは思う。
「君は僕らの大切な友人だ。だから、アレイナさんが君のことを貶めるのがどうしても許せなかったんだ。君の尊厳を守りたかった。マリア、自分なんかなんてもう二度と言っちゃだめだ。すごく悲しい」
「ごめ……ごめんなさい。ごめんね、もう二度と言わない……」
「うん。ごめんね、僕も言いすぎた」
「ううん。ありがと……」
涙がきらりと床へ吸い込まれていく。
マリアはゴシゴシと涙を拭いて、「セナの治療、あたしも手伝う」と言った。その顔はもう、いつものマリアだった。
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