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森の中に消えて行った弟が、なかなか戻ってこない。
クリンが一抹の不安を覚えたその時、
「セナ!」
マリアの声に振り向けば、崖から跳んでいった方とは逆の、先ほど自分たちを担いできた方角から戻ってきた弟を確認する。
さすがのセナも、あの低い川岸からこの崖までは跳べないと判断し、遠回りしてきたのだろう。
息を切らせたセナの両肩には、ぐったりとしている男の子と女の子の姿があった。五〜六歳くらいだろうか。まだまだ幼いその子たちは、怪我をしているのか意識がない。
男の子のほうは頭から血を流し、女の子は左足が真っ赤に染まっていた。布一枚をざっくり切ったような洋服を見るかぎり、あまり裕福な家庭の子たちではなさそうだ。入山する前に泊まった村の子だろうか。
「急いで治癒術を」
「わかってるわ」
セナの言葉よりも早く、マリアはもう動いていた。
治癒術の柔らかな光を見やりながら、クリンがセナに尋ねる。
「何があったんだ?」
「洞窟があった。中が崩れていて、こいつらが岩の下敷きになってた。中にもう一人、いる」
「えっ?」
早口に説明し、またセナが助走をとろうとする。その前を、クリンは立ちはだかった。
「もうダメだ! 雨がひどくなってる。川があふれたら、お前まで巻き込まれるぞ」
「放っておけって言うのか!?」
「そうは……言ってないけど」
「早くしないと間に合わなくなる!」
「いい加減にしろよ! いつもいつも無茶ばっかりして、どれだけ心配してると思ってるんだ!」
「じゃあクリンが代わりに行ってくれるのか!?」
「……っ!」
返す言葉もなくて、クリンは息を飲む。
だが失言だと気づいたのだろう、セナまでもが傷ついた顔を浮かべていた。
だが言い争っている猶予はない。セナは気まずそうに歯をくいしばると、大きく助走を始め、崖を跳んで行った。
クリンはもう、止めることができなかった。
「クリンさん……」
「ごめん、大丈夫」
そっと背中に手を添えてくれたミサキに、無理してでも笑ってみせる。これ以上、情けないのはごめんだ。
クリンは気を取り直して、子どもたちの様子を伺った。
「マリア、怪我はどうだ?」
「怪我はたいしたことないみたい、もうすぐ終わるわ」
「そうか、ありがとう。でも、何日食べてないんだろうな」
脈を測ってみる。通常のそれよりも、ずっとゆっくりだ。子どもたちは見るからに衰弱していて、一刻を争う状態だった。
「温かいスープでも飲ませてあげたいけど、この雨じゃ……」
「私、携帯用のスープがあります。マリア、治療が終わったら火を出して」
「わかった」
マリアは治療の目処がたったところで、手のひらに火を灯した。小鍋に非常用の即席スープを入れ、その火で温める。
聖女の力をこんなふうに使うのはいささか不謹慎な気もするが、そうは言っていられない。
温まったスープをフーフーしながら、子どもたちの口に流し込んでいく。こく、と喉が動いたのを見て、ホッと安堵の息が漏れた。
「それにしても、この子たち、こんな山奥にどうやって入ってきたんだろう」
「逆かもしれませんよ。入ってきたのではなく最初から居たのだとしたら」
「……それって、つまり!」
──ゲミア民族の子!
その答えに辿り着いた時、ヒュンッと風が動いた。
「わっ」
「きゃっ」
クリンとミサキの間を、一本の矢がかすめる。それは地面に突き刺さり、羽根の部分が揺れていた。
「弓矢!?」
跳んできた方を見れば、背の高い痩せ型の男たちが三人、四人……。みな、すさまじい表情でこちらを睨んでいる。
「里の子、襲ったのか」
「里の子、宝。返せ」
「処刑、処刑」
唸り声の中に聞こえてきた単語に、クリンは誤解されていると気付き、両手を上げた。
「まってください! 僕らはこの子たちを助けただけです!」
慣れないリストラル語で賢明に訴えたが、言葉の壁か、それとも別の要因か、彼らの耳にはまったく届かなかったらしい。
一人がヒュンッと跳躍し、視界から消えたと思ったらミサキの背後に回った。抵抗する隙も与えず、男はミサキの首に腕をまわすと片手に持ったナイフを頬に当てた。
「動くな」
「ミサキ!」
男が命令するよりも先に、マリアが炎の玉を生み出す。しかし、クリンがそれを止めた。
「ダメだ、マリア! ミサキに当たってしまう!」
「……っ」
くっ、と悔しそうに炎を消し去った時、風は動いた。
「マリア、危ない!」
別方向から跳んできた矢は、まっすぐにマリアを狙っている。
クリンは体当たりをして彼女を守った。瞬間、右肩に焼けるような痛みを覚える。
「うあっ」
「クリン!!」
「クリンさん!」
感じたことのない激しい痛みに、心臓がどくどくと早鐘を打つ。痛い、熱い、痛い。
しかし痛みに目を閉ざすも束の間、傷口に優しい光が添えられて痛みが引いていくのがわかった。マリアの治癒術だ。
ホッとしてマリアを見る。が、次の瞬間クリンの目に映ったのは、彼女の背後に忍び寄る一人の影。
「マリア!」
呼びかけは遅く、男の拳がマリアをなぎ払った。マリアの体は軽く横に吹っ飛び、十メートルほど転がったところで動かなくなった。
「マリア! マリア!」
「いや──っ!」
ミサキの悲鳴が響き渡る。
と同時に、崖下のほうから耳をつんざくような騒音が鼓膜を突き破った。川の水が吹き出すかのごとく勢いを増し、一気に下流へと流れていく。
その光景が目に入り、クリンの心臓は凍りついた。
「セナ……」
上流から溢れ出る濁流は、セナが消えた方角まで飲み込んでいく。
「セナ! セナ、セナ!」
男たちが何か叫んでいるのが聞こえたが、振り切って、崖の端まで走る。
見えない。弟の姿はどこにも見えない。
「セナ! セナ────!」
呼び声は濁流にかき消されていく。
次の瞬間には背中に衝撃を感じ、激しい痛みに襲われた。矢だ。そう気づいた時には地面にひれ伏していた。
「クリンさん、クリンさん!」
倒れ込んだ体に力は入らず、ミサキの泣き叫ぶ声を聞きながら、ただ痛みに顔を歪める。遠ざかっていく意識の中、茶色く濁った川だけが瞼に残った。
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