第八話 ゲミア民族の里へ

7/7

97人が本棚に入れています
本棚に追加
/327ページ
 危なかった。  子どもを助けるのが一足遅かったら、自分たちもあの濁流に飲み込まれてしまっていただろう。  セナは背後に聞こえる川の轟音を聞き、樹から樹へと跳び移りながら安堵していた。抱き抱えた命はもう力尽きようとしている。先程の子たちよりも重症なこの男の子を、一刻も早くマリアのもとへ連れていかなければ。  さすがに体力が切れてきたせいで、進む足は重い。  やっとのことで崖にたどりついたセナは、予想もしていなかった光景に息を飲む。  誰もいないではないか。 「クリン!?」  一瞬、置いてきぼりをくらったのかと思ったが、あの兄が自分にそんな仕打ちをするはずがない。ましてや、子どもをもう一人連れてくることを知っているのに待たずに移動するなんてありえない。  地面に落ちている鍋がここに彼らがいたことを示している。だが彼らの荷物はなく、自分の投げたリュックすら見当たらないようだ。  ふと、崖の先端に突き刺さった弓矢が視界に飛び込み、ぞわりと総毛立(そうけだ)った。  何か、あったのだ。  その瞬間、どくどくと心臓が波打つ。兄は。彼女たちは。生きて…… 「くそっ!」  地面に突き刺さった矢を乱暴に引き抜き、子どもを抱えたまま崖を下っていく。闇雲に探したって意味がない。だが、ここで待っていることはできなかった。そんなことをすればこの子は死んでしまうだろう。  川から遠ざかりつつも、上流を目指した。  そもそも、この子たちがいたのは川のあちら側。入山してから一度も、あちらへ渡る橋なんて見当たらなかった。ということは、この子たちはあの村の子ではないということになる。  そう、おそらくゲミア民族の子なのだ。そして里は、この川の向こう側にある。ならばなんとかして川を渡り、里までこの子を届けたい。  疲労感で足を取られる。だが、それでもセナは跳び続けた。  ずいぶんと山を登った。  標高が高いのか、それとも単に疲れているだけなのか、息が切れる。腕の中の命がまだ温かかったことだけが希望だった。  だいぶ上流までやってきた。いまだ雨は降り続いているが、下流の濁流に比べれば川の勢いは弱い。  軽々と川を飛び越え、今度は川に沿って下山していく。  心臓は相変わらず鳴り止まない。  万が一だ。万が一、里まで濁流に飲み込まれてしまっていたら?  そんな絶望的な考えが脳裏に浮かんでは、自分を叱咤(しった)する。自分はただ走ればいいのだ。信じろ。  だいぶ中流におりてきた。だが、これ以上は川の氾濫に巻き込まれるおそれがあるため、近づけない。  いったん呼吸を戻そうと、足を止めた。その時。 「!」  横からきらりと光る何かが向かってきて、反射的に飛び退く。視界の隅に映ったそれは、あの崖で見たのと同じ弓矢だった。 「なんで……っ」  逃げたところにもう一つ、別方向から()られる。弓手が複数いるため、どこから狙われているのか見当がつかなかった。  ジグザグに樹の上を飛び回り、矢の照準から逃げ回る。 「聞け! 子どもがいるんだ! 早く手当てをさせてくれ!」  と叫んだが、残念なことにその言葉は自分の慣れ親しんだ言語。しまったと思った時には、容赦なく弓矢が飛んでくる。こんなことになるのなら、ちゃんとミサキの語学塾を真面目に受ければよかった。 「ぐ……っ」  矢が頬をかすった。あちらは複数で狙っているのだが、一方こちらは瀕死の幼な子を抱えている。これでは分が悪い。 「子どもがいる! やめろ!」  おぼつかない単語で必死に訴えるも矢は容赦なく飛んでくる。  そして攻撃は一辺倒(いっぺんとう)ではなかったようだ。足下を狙われた弓矢をかわし、高くジャンプしたその空に、さらに上を飛んだ男が自分を見下ろしていた。 「──っ!」  身構える隙も与えられず、男の両拳がセナの額にヒットする。視界が揺れて、体が地面に叩きつけられたのを知った。 「……ぐぁ、痛ってぇ」  べしゃりと濡れた地面の上で、激痛に(もだ)える。頭がぐわんぐわんする。  それでもなんとか上半身を起こした時、今度は左足に激痛が走った。 「うぁっ!」  矢がふくらはぎを貫通して地面まで突き刺さり、赤い血が滴る。 「ふっ……くうぅっ!」  セナは息を止めてその矢を引き抜いた。 「くっそ……子どもがいるって、言ってんだろーが!」  叫んだと同時に、ぐらりと視界が歪んだ。  毒だ。  そう認識した時、樹から男が飛び降りてきてこちらを見下ろしてきた。男の手には長い槍。  どくどく、どくどくと脈が早まるのを感じる。 「ははっ……こいつら、全然話が通じねえ」  死ぬかもしれないこの状況で、腹の奥底に眠っていた奇妙な感覚が顔を出し、笑みを誘う。気分が高揚してきたのを知ってセナはぶんぶん頭を振った。  力を振るうなら、守るためだ。  男が槍を振り上げる。  セナは子どもを抱え直し、痛む足で地面を蹴り上げた。  守れ。今死んだらこの子は終わりだ。  槍から身をかわし、また樹の上へと避難する。一度冷静に見渡せば、先ほどは見えなかったものも見えてきた。 「いた」  樹の上で弓を構えた者を見つけ、そこに飛び蹴りを食らわせる。 「もう一人!」  その斜め先で、同じように弓で狙いを定める男を見つけて飛びかかった。その男を樹から蹴り落とし、別方向から跳んできた弓矢を避けながら、その先を注視する。三人目の弓兵ははるか高い樹の上にいた。  樹と樹を蹴ってそこまでたどり着くと、弓を構える男と一対一で向き合う。威嚇射撃の矢をかわし、男に一歩近づいて再び会話を試みた。 「この子を知っているか? 助けたい」 「里の子! 殺した!」 「違う!!」  男の(うな)り声に、セナは首を振る。  助けたいと、何度も訴えているのに。 「助けたいって言ってんだろ! 俺は、この子を助けたいんだ! 早くしないと本当に死んじまうんだよ! だから里……に……」  そこでふと、ぴたりと体が硬直してしまった。  腕の中の小さな温もりが、いつのまにか冷え切っていることに気づいて。 「──え」  幼いその子はまるで人形のように動かない。だらんとぶらさがった腕。血の気のない、陶器のように真っ白な顔。 「うそだろ……。いつから……」  右肩に、ぶすりと弓矢が突き刺さる。 「っ!」  ぐらりと全身が揺れ、セナはバランスを失った勢いのまま落下していく。受け身も忘れて高くから叩きつけられた地面に、息もできず苦しむ。 「……っ。うぅっ」  腕の力を緩めれば、ぼとりと横に落ちた、小さな命。  全身にほと走る痛みを感じながら、絶望に、起き上がる力もわいてこない。 「は……はは。なんだそれ……」  小さな死を前にしてこぼれたのは、涙ではなく乾いた笑い声だった。  助けられなかった。あんなに走ったのに。あんなに守ろうとしたのに……。  ぐしゃ、と。近くで地面を踏みしめる音がする。男が近づいてくるのがわかった。 「あれ。じゃあさ……」  ──俺は今、なんのために力を振るうんだっけ?  そんな考えが頭をよぎったと同時にぞくりと心の奥が震えあがって、セナは思考を放棄した。
/327ページ

最初のコメントを投稿しよう!

97人が本棚に入れています
本棚に追加